昨日から4月だ。夫は職場でひとつ横の机に移動したらしく、荷物の整理に行くというので、職場に潜入した。職場の人は2,3人来ていたがとくに突っ込まれるでもなく、夫が1時間半ほど片付けをしている横で、私は本を読んでスマホで少し原稿を書いていた。終わって近くの店で飲んだ。そのあと夜の散歩ということで日比谷公園に行って桜を少し見た。幅広の階段になっているところでこけて、この冬買ったズボンをダメにした。帰宅したら膝から血が出ていた。寒かったからかひどい頭痛に襲われて早めに寝た。
今日はうちから3分の公園で夫と花見をした。去年の春にリップグロスを買ったときにもらった一人用のレジャーシートと、水筒に入れた焼酎のお湯割り、もらいもののおかきを持って行った。柏の桜は3分咲きといったところだ。公園の向こう側にいつも行くスーパーがあるので、まずスーパー併設のクリーニング屋に服を持って行ってからスーパーでよなよなエールと唐揚げ、ねぎとろ巻きとおにぎり、ポテトサラダとジュースを購入して公園に戻り、ふたりで同じ方を向いてレジャーシートに座って、レジャーシートはふたつのお尻しか入らないので、買った食べ物をビニル袋の上に置いて、ふたりで食べて飲んで昼の小一時間を過ごした。ひとつ商工会連合のような団体がお琴を持ってきていたが我々の滞在時間中には鳴らなかった。家族連れがほとんどで、子供達を遊ばせて親たちは酒盛りをしていた。サッカーボールを蹴っている子たちのなかに入りたかったが大人なのでやめておいた。うちにも子供ができたらこういうかんじでママ友なんかと家族合同花見をするのかなと思ったけど、いろんなお母さんやいろんなお父さんがいるのを見ていたら、少しめんどくさそうにも思えた。とりあえずはユリちゃんとユリちゃんの息子と花見に行くくらいが楽しそうだ。
帰宅して結婚式用の席札のなかに、それぞれへの短いコメントを書きながら号泣した。いや、できるだけ感動的でないようにつとめて書いていたのだったが、さきほど見た子供たちと同じ年代のときの妹が目に浮かんだからであった。私は4歳下の妹を連れて遊びに行ったりしたものだったが、ただでさえイケてない自分が連れていく妹は明らかに足手まといで、あまり歓迎されなかった。私は自分が輪に溶け込むことで精一杯だったので妹をかばったりできなかった。そのときの私の姿は自分自身写真に残っているもので思い出すほかないが、妹の姿はなんとなく目に残っているのだった。
外ではなかなか妹をかわいがってやれなかったが、家ではふたりで楽しかった。セサミストリートのプラスチックのフォークとスプーンをもらったとき、私がさきに「あやかはオレンジ!」と言った。妹は「なっちんは黄色!」と言って、取り合いにならなかった。親がケーキを買ってきたときなども、相手のものがほしいと思わない姉妹だったので喧嘩をしたことはなかった。とくにお姉さんらしくふるまうようにも言われなかったし、妹の方がよくできたので九九は私が小2のときに4歳下の妹も覚え、ポケモンは妹が小2のときに4歳上の私も一緒に覚えた。私が高校1年の終わりだったか、複素数を習い始めたときに、小6の妹に説明したら座標を指差して「ならこれが1-iね」などと理解したので妹はえらいと思った。そして妹は姉のふり見てわがふりなんとやらでちゃんと国立大学に行き自分で奨学金をもらって大学院も行き、ちゃんと会社勤めしている。妹からはあるときまで「オネエマン」と呼ばれていたが、あるとき恥ずかしくなったようで「おねえ」になり、「ねえさん」と呼ばれ、今は「あやかどん」だったり「姉」だったり決まった呼称はない。
そんな妹は3月に婚姻届を出した。私は2月に出したから姉妹でばたばたと結婚したことになる。うちの父は香川の田舎の佐藤家の長男だったが、私も妹もあっけなく佐藤でなくなってしまったことについて、母親は「佐藤は日本中にいくらでもいるから大丈夫」と言ったので、たしかに、と思った。30過ぎても親に家賃を払ってもらってふらふらしていた姉が電撃的に結婚し、7年付き合った相手とのようやくの区切りで妹が結婚し、ふたりがふたりとも結婚する親の気持ちになるといくらでも泣けた。両親はよくがんばったと思った。感謝しだすときりがないので席札の両親へのコメントにはあえて「ありがとう」とは書かなかった。夫が親に書いているのをちら見したら大変そつなくコメントしていてちゃんとした人だなと思った。夫は一人っ子である。
私は号泣したまま洗い物をした。夫は相変わらずPCのゲーム「三国志13」をやったり仕事をしたりした。「三国志」は好きな主人公が選べるので、夫はまず曹操でやってクリアし、孫策でやってクリアし、今は司馬懿でやっている。晩ご飯は夫の好きなハンバーグをつくった。なぜか中から緑茶色い汁が出たが味は悪くなかった。