2020年9月11日金曜日

2020.9.11 たまに死にながら生きていく

旅に出ることはふだんいる場所からいなくなることなので、突発的な旅はかるい自死といえる。突発的に飲みに行くだけでも、ちょっとした死だと思う。死だなんていう言い方があれだとすれば、つまりは単に非日常ということで、私は長いあいだ非日常を渡り歩いてきたのだった。日常を拒み続けるというのは、毎日死んでは生きかえるみたいなことだ。今日生きていた価値がないと感じても、その日の夜で死ぬと思えば、その日の夜が楽しいことも許される気がした。それでいて、自分はわりかしちゃんと帰宅して寝て、生き延びた。

できるだけ準備をしない旅ほど、自分を殺すかんじがつよい。ものすごい薄着で羽織るものを持たずに知らない電車に乗るときの、自分へのいたわりを振り払った快感は、一人でお酒を飲み過ぎたり体のどこかを故意にいためつけたりするときのそれと似ていて、しかも体に悪くないという意味で(電車の冷房にやられて体調をわるくするということはあるが)旅はまだ、体によいといえる。(だから、友人と急に飲みに行くのは、もっと体によい。)

かつて、つかっていない口座に思ったよりお金があったから、と言って強羅のよい宿につれていってくれた人がいた。その人も私もたぶん、仙石原のすすきのなかでいったん死んだ。私たちは愛し合っていたというより、それぞれ死にたがっていたんだと思う。ここでの死とはもちろん、単なる非日常のことである。

そういうことが、世界のすすみ具合や人生のなかでゆるされなくなるのはしかたのないことなのかもしれないけれど、自分にとってたまに死にながら生きていくことはほんとうに死なないために必要なことだと思うし、それを理解してくれている夫に感謝している。

生活における日常は週3回のバイトだけ、あとはすべてが非日常、みたいな暮らしだったころのバイト先の先輩に雇われて、昨日からまた少しバイトをすることになった。「あいちゃんは一番結婚むいてないと思ってたのに。笑」と言われて、まぁそうだろうなと思った。あのころ一緒に働いていた女性たち4人は、たまたま結婚していないらしい。

結婚にむいていないと思われていた私だが、結婚せず今生きていられたかは怪しいところだ。お金を稼ぐ仕事をしないでも生きられるようにしてもらえて、なおかつバイトをさせてもらえて、「パスタのAのお客様」と言いながらトマトパスタを提供して、はじめて生きている心地がした。私にとっての新しい生活様式は、非日常を超える日常の構築によってはじめて成り立つ。


(この漫画↓を読んだ感想でした)