2020年8月31日月曜日

2020.8.31 「好き」に関する考察 思いナマコと思われマリモ

 人と人との関係において、「好き」の量や質が完全につり合う奇跡というのはほとんど起こりえないので、たいていの場合は相対的にどちらかの方が相手をより「好き」、ということになる。もちろん人の数だけ「好き」のやり方があり、その人のなかでのめいっぱいの「好き」が他の人から見たら豆粒のように見えることもあるから一概に比較はできないが、とはいえ、「好き」同士に見える恋人たちや夫婦であっても、よくよく観察すれば、どちらかの方が相手をより「好き」であることはよくある話だろう。恋愛関係に限らず、上司と部下とか、友人同士でもそうだ。

仮に、ナマコとマリモいう2人で考えてみる。ナマコはマリモのことがめちゃくちゃ好きで、マリモはナマコのことがある程度は好きだという場合だ。

1対1の間柄なら、相手から思われる質・量は、自分が相手を思う質・量と同程度であってほしいとのぞむ場合が多いだろう。ナマコはマリモにもっと好かれたいと願って近づきすぎて、マリモはナマコの愛が重すぎると感じて遠のく。そこで2人の距離感は、マリモ(気持ちが弱い側)の意思によって決定づけられ、そこでバランスをとるのが一般的であるように思われる。「好き」は凶器になることがあるので、当然といえば当然だ。

ただし、まれにナマコ側の気持ちが優先されて、非常に近い距離感でバランスが成り立つことがある。マリモはナマコに(自分が相手を思う以上に)好かれていることを許容しており、一方ナマコはマリモから(自分が相手を思うほどには)好かれていないことを理解しながら、それでもいいと考えているわけだ。ここではナマコの片思い力と、マリモの愛の受容力(または鈍感力、または愛されたい力、または受け流し力、または心身がたまたまヒマであることなど)が釣り合っていて、思い自体がつり合っているわけではないのだが、はたから見ると、ただの仲良しである。

で、自分の場合はというと、友人関係にしろ恋愛関係にしろ完全に片思いナマコ体質なので(思いの質の境目が曖昧なので、ある種の友人や尊敬する人への気持ち=恋というケースが多いがまたこの話は別の機会に)、思われマリモ型の人にここぞとばかり愛を注ぐことで仲良くしてもらっていることが多い(いやもちろん、ふつうに相手を友人として好き、で、それと同程度相手からもそう思ってもらえている場合もある)。自分が相手を思うほどは相手から好かれないことに、なかば安心しているともいえる。かつて一度、自分と愛がつり合いそうな人と付き合ったことがあるが、ガチでお互い身を滅ぼすところだった。自分が敬愛していた相手に、自分が思うより思われてしまったときには、均衡を保つのに苦労した。そのときは、いったん引いて相手の気持ちを逸らしてから、お慕い申し上げ直した。

こういう人間は本来、誰か(手の届かない芸能人など)の「ファン」になるとか「推し」を設定するとかで気持ちを昇華していくのが望ましく、実際現在宝塚歌劇団には大変助けられている。結婚してどうだったかというと、夫はやはりマリモ型なのだが、ナマコよりデカい特大マリモみたいなかんじなので、いくら体当たりしても全部吸収するから安心だ。ただ、私の愛は愛で無限大∞なので、別に結婚したからといって一部の友人のみなさんに対しての片思いをやめることはないから、それについても安心(?)していただきたい。