2017年2月16日木曜日

2017.2.16 俳句の「とりあわせ」との出会いと『俳句を遊べ!』の打越マトリクス①


もう何千回も話しているが、私が俳句と出会ったのは中学1年生のときだ。うちの中学に1年だけ非常勤講師で夏井いつきさんが来ていることに目をつけた地元テレビ局が、「中学生が俳句を通していかに変わるか」といったドキュメンタリーが録りたいというので、普段夏井さんに教わっていないクラスが選ばれた。私たちの1年A組だった。
当時の私は客観的に見ても目立ちたがりの変人で(天パーで眼鏡で小太りだった)、「テレビが来る」「俳句面白そう」と個人的に盛り上がっていた。
松山なのでほかのクラスメイトは「俳句慣れ」していたけれど(これは「俳句嫌い」に近い)、私は去年引っ越してきたばかりだからまだ俳句が珍しかった。そのへんの話は大人になるまでに読みたい 15歳のための短歌・俳句・川柳②生と夢に書いたので興味があれば読んでみてください。

そこではじめて教わったのが「とりあわせ」というやり方だった。私は教室のうしろのポストへの投句数でクラス1位になるほどどんどんつくり、結果とりあわせにはまったけれども、その授業当時はあまり「とりあわせ」の良さも意味もわかっていなかった、と今になってみるとわかる。
去年中学1年のときの俳句手帖が出てきた。そのときのまずまずの句といえば

  胃を病んで今日六羽目の目白かな
  また今朝も猫のあいさつ春近し
  絵の中の音符に雪が積もりけり

などであって、これらはせっかく教わった「とりあわせ」のやり方(二句一章)など使わずに、自分の持っている言語能力と感性だけでどうにかしたビギナーズラックだ(まぁ二句目は一応中七で切れてはいるが)。

でも、その俳句の授業に初期に提出した句で

  秋風や25cmのスニーカー

というのがあった。これは「とりあわせができている」と褒められた。そのあともベタベタな句を書くと、「この前のスニーカーみたいな句をまたつくってよ」とコメントをもらったのを覚えている。

なぜこの句をよく覚えているかといえば、これはうちの母が書いたものだからだ。うちの母は当時同じ中学で非常勤講師をしており、国語科研究室で夏井さんと机を並べていた。母は、「とりあわせ」をちゃんと頭で理解して、腕試しくらいの気持ちで、この句をつくったはずだ。これ出してみなよ、と言われ、私も自分の足のデカさは持ちネタだったので面白いと思って出した。そしたら褒められた。単純に嬉しかったのでまた俳句つくろーと思った(このへんのプライドのなさが私である)。

それ以降も、クラスでたまたま何も考えずにつくった子が、その子はよく意味がわからないまま夏井さんの素晴らしい鑑賞によって褒められ、私の句はそこまででもない状態だった。初心者にとって、「とりあわせ」というのは、鑑賞者がいてはじめてわかるやり方だと言ってもよい。急にいい組み合わせを、しかも考えて思いつく人というのは、もともとよっぽどセンスがあったり、別の芸術ジャンルでその方法を知っている人だ。『俳句を遊べ!』の生徒2人というのは、特待生だと思ってもらえればいいと思う。

「とりあわせ」をはやく理解するコツは、「とりあわせ」の句の良質な鑑賞にたくさん触れることだと思う。授業で友達の書く句に対して、見事なコメントをほどこす夏井さんがいなければ、その方法が果たしてあっているのかすらわからなかったはずだ。(だから、5音の季語とそれと関係のない12音のフレーズを考えよう、と夏井さんの方法だけ真似しても、なかなか俳句の授業はうまくいかない。鑑賞のプロ・夏井さんありきのやり方だからだ。)
また、私は書いた句を母親に見せた。母親はふつうに教養のある大人な上、国語科研究室で夏井さんからいろいろと俳句の指導法を教わっていたから、今となっては覚えていないけれど、私の書いたもののなかで「とりあわせ」になっているものとなっていないものを見つけたり、ありきたりでないものを面白いと指摘しただろう。テレビ用の授業が終わったあと、私は「俳句の缶づめ」というファックス句会に精力的に投句するようになって、そこでようやく褒められる作品の研究をするようになり、「とりあわせ」についてもなんとなくよさがわかってきたのだと思う。

  桜咲くかに道楽のかに動く
  酸性の風待月や犬の声
  金魚鉢雲のでき方調べをり

これらはたぶん中学2年生になってからの句で、「とりあわせ」を飲み込むまでに半年ほどを要したことがうかがえる。私が「とりあわせ」の意味がわかって考えて書けるようになるまで俳句を書き続けられたのは幸運としか言いようがない。

(少し話がそれるが、面白い俳句が書けるようになっていくということは、俳句というジャンルで作品を今新しく書くにあたって、どのへんが的でどういう矢を放つ必要があるのか、を理解していくことだと思う。)

ようやく俳句の意味がわかってきたころ、中学2年か3年のとき、国語の研究授業で連句をやった。花の座だとか縛りがあるのも魅力的だったし(どこで何のお題が出るかは忘れたが)打越というのは面白いと思った。大学で俳諧の授業をとったときにも思ったが、「直接関係はないけどなんとなくいい雰囲気」の言葉を探す、というのは、俳句の「とりあわせ」と似ていると思った。(つづく)

※私は「とりあわせ」を「関係のないふたつのものを一句の中で組み合わせるやり方」として『俳句を遊べ!』中で紹介しています。二物衝撃的で二句一章的な「とりあわせ」です。