その方は夫の上司にあたる人で、F君が結婚した相手が俳句をやっている、というので面白がって探して読んでくださっていたらしい。俳句がどうこうというよりたぶん、ふたりはちゃんと家庭生活をやっているのかと心配してくださっていたのだと思う。私が夫のことをよく書くので、それを読んでほっとしていた、とおっしゃっていた。(なお、最近ブログを書いていないのは、結婚から2年して、かなり生活が安定したのと、科目等履修生として大学に通っていることもあり、逐一書ける内容が減ったからである。)
うちの夫に会ったことのある方はおわかりかと思うが、夫は誰かと会ったとき、にこにことはしているもののかなり無口だ。
どうも、職場でもあまり多くは話さないらしい。家でも、夫から話しかけてくることはあまりない。仕事が大変だとも言わないし、人間関係の愚痴も一切聞かない。だいたいの場合私が「ちょっとすごい発見があるんだけど」とか「ねーねーちょっとこれありえなくない?」とか言って会話が始まる。私は感情のアップダウンが激しいので、何がひきがねで怒ったかや、どういう素晴らしいことがあったかなどを話しまくり、自分で話しながら答えを見つけて納得したり、どうすればいいかアドバイスを求めたりする。夫はだいたい静かに聞いている。コメントするときも私に同調したりせず、私の考えるヒントになるようなテレビ番組(いつの間にかいろいろ録画してある)を見せてくれたり、部屋からおもむろに本を数冊持ってきたり、意見を言うときももどかしくなるくらい客観的な見解を述べる。私は話し散らして気持ちがだいぶ冷めると、なるほどと気づかされることも多いので、たいへんありがたく思っている。私「つらい。またしゃべりすぎた。なぜ、人間はしゃべりすぎるのだろう」— sato ayaka (@kamonnohashi) 2019年6月17日
夫「僕はしゃべりすぎないよ」
私「なんでしゃべりすぎないの?」
夫「しゃべらないから」
しゃべろうよ…
みたいなことを書くと、「本当にいい人と結婚できてよかったわね」と諸先輩方から言っていただくのだが、そう言われると嬉しい反面、毎度ちょっとストレスが生まれているのも事実である。
夫とて、私と結婚できてよかったのである。
いや、結婚するのがゴールではないし、そもそも皆が結婚すべきとは微塵も思っていない。もちろん、夫君の方もよかったわなんて、そんなこと言わずもがなでしょう、と言われるだろう。が、なにかが違うのである。
じゃあ夫の話をしなければいいじゃないかと言われるとする。と、自分はほとんど“夫が趣味”であることに気づいた。もっと言えば“推しが夫”なのである。これは私に限ったことではなく、うちの父、亡くなった父方の祖父もそうで、私を含むこの3名は、どこへ行っても家族の話ばかりするという共通点がある。私など大学時代に、教わっている先生(父の大学時代の先輩)から「お父さんはあなたが今の彼氏と結婚してしまったら…と悩んでおられたよ」と聞かされたり、父の授業を受けている友人から「サトゥーのお父さん、またサトゥーの話しとったよ〜」と言われたことがあるくらいだ。祖父に至っては町内全域で私たち姉妹の話をしていたのではないかと思うレベルに言いふらしていたようである。
家族の話をするというのは遺伝だと思う。そういえば父も祖父も、趣味らしい趣味がない。私同様音楽が好きとかはあるが、そのレベルだ。たぶん、言うなれば“家族が趣味”の血筋なのだ。
私に関しても、なにも推しは夫だけでなく、迷惑だろうが妹も推しだし、妹の夫も推しだし、仲のいい友人も推しで、よく好きな人のことをしゃべっている。俳句オタクが俳句の話をして生き生きするように、私は夫や家族、仲のいい友人の話をするのが楽しいというだけだ。だから「いい人と結婚できてよかった」と言われるのは、それはそうなのだが何かが違う。
究極のところ、今の夫以外の人と結婚していればその人のことをこれくらい話すだろうし、結婚していなくとも誰かとお付き合いしていればその人の話をするというだけのことである。基本的に、そのときその人の話をしたくなるような人としか付き合わない。
俳句が好きな人が今好きな俳句の話をし、家族が好きな私が今好きな夫の話をするのは、同様に自然なことなのだ。
なのでたまには今日のように、「F君は仕事と結婚してるような人だったから…結婚できて本当によかった」と言ってもらえると、とても喜ぶ。だって、俳句オタクとなった人が俳句に出会えたことはもちろん素晴らしいが、俳句作品、俳句というジャンル全体にとっても、俳句オタクとなるべき人に出会えたことは最高の喜びにほかならないじゃないですか。
「夫は私と出会えてよかったねぇ、ねぇ」と言ったら、目の前で勉強をしている夫が顔を上げて、「そういうブログか」と笑った。