私の言う花見とは、花時のかんたんな散歩である。もともと花の宴にはそこまで興味がなく、というのもすぐに尿意をもよおすため便所との往復や待ち時間ばかり長くなってだるいのが主な理由だが、ソメイヨシノがきれいという価値観を疑いもしないような友人と楽しく付き合うことにも限界があり、コロナ以前でさえある程度趣向を凝らした宴会以外に顔を出すのは控えていた。
ただし咲いているというだけで缶ビールを飲みながら歩く人間に寛容な社会になるのであればクローンの繁栄もありがたいこと。あるいは、飲み歩く人間の自責の念を霧散させるフェロモンを花が放出しているならそれもよし。とにかく、異界感の演出を引き受けていただけるソメイヨシノさまにおかれましては量が命。そういった気持ちを基盤に俳句を書いてまいりました。
想像のつく夜桜を見にきたわ 池田澄子
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ちょうど去年の3月27日にも日記を書いていたので読んだ。
去年のこの時期よりはいささか穏やかな気持ちでいられていることをありがたく思う。あいかわらず渡航時期は未定だが。
日記や写真を何年かして同じ時期に見返すと、めぐる四季と進む年月が描く螺旋をつよく感じる。そういう感傷は日々の潤いなので、今後も未来における娯楽のために日記を書いたり写真を撮ったりするだろう。一方俳句に関しては、いつ書いたものにもさして懐かしさはない。仮に出土した作品に郷愁をおぼえるとすれば、自らの作家性からは漏れるものとして捨てるのみ。そこで捨てられないものがあるとしたら負けだ……ただし自分に負けることもまた、替えの効かない事態なのかもしれない。そのあたりへの気づきが、最近の作業の成果である。