2021年1月31日日曜日

2021.1.31 日本語自由詩と日本語定型詩

なんとなく一ヶ月に一度このブログを更新することにしていて、今月はまだで、今日が今月の最後の日で、あっという間に今年も12分の1が終わるなどと思い、こういうみんなが思うようなことを思ってどうすると思い。再びの緊急事態宣言により大好きな誰かとの外食(この場合の「大好きな」はどちらにかかるか)が封じられ、作品も書けず、仕事も滞っている。

去年のおわりごろにやっていた英語の詩の音読を中断してしまったのは、句集をつくりはじめたからというのと、日本の現代詩に興味がわいたからというのがある。それはそれでいい。英語は忘れてもまたやればいい。

これまで現代詩は三角みづ紀、文月悠光、大崎清夏、岡本啓、鈴木一平あたりを読んでいたのだが、今回またいろいろ読もうと思ったきっかけは石松佳『針葉樹林』で、岡本啓『ざわめきのなかわらいころげよ』も出て、これはうまくジャンルの更新の時期にあたったなと。ちょうど『現代詩手帖』2月号が新しい雰囲気をざっと摑むのにちょうどよく(詩と書評しか読んでないけど)、なるほどかっこいいなと感じている。

これらの詩を現代詩、と呼ぶのがいいのかはわからない。自分も詩を書いてみることがあるけれど現代詩を書いているとは思わない。575で季語が入ってれば俳句じゃん、と外の人に思われ、まぁそうだけどそうじゃないんだよと我々が思うように、詩っぽければ詩じゃん、現代の詩は現代詩じゃん、でいいとはやはり思えない。2021年現在の現代詩のコードが知りたいのでもう少しいろいろ教わりたい。個人的には、現代詩の難しい部分のうち難しくしかひもとけない部分をのぞいて、翻訳可能な部分について多少粗くても仲間に共有していきたい。そういうことを聞いて考えるのに飲み屋での雑談はぴったりで、私は大人になってからすべてのことをそうやって飲み友達に教わってきたんじゃないか。知らないことの飛沫を浴びるために酒はある。つまみも。

現代詩を読もうと思ったのはもうひとつ理由がある。私が今度携わるイベントの告知文を書くときに、これは私の卑屈な思い込みなのかもしれないが、どうしても今まで「(日本の)詩」というジャンルの下の階層(または特殊型)に「短詩型」として俳句・短歌・川柳が置かれている気がして、新しい句集と歌集のイベントに「短詩型」という言葉を用いない方法を考えたのだ。アメリカ詩や漢詩(小津夜景『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』)を少し読んでみて、自由詩と定型詩は並列であるべきなのではないかと感じたことを思い出し、「日本語定型詩」という言葉を思いついて、そうしてみた。



自分はずっと日本語について考えていて、そのうちの詩、のうちの定型詩、のうちの俳句、というつもりで書いていて、それぞれ面白い、作家はみな同士と思っているから、同じように言葉の作品をつくる同士、と思ってくださる方には聞いてほしいイベントです。鴇田智哉と永井祐はずっと慕っている定型詩の作家ですばらしい友人たち。鴇田さんと永井さんは今回初対面らしく、結びつけることができたことで私の仕事は8割終わっていて、残り2割も裏方でよく、当日はとくに出演する必要もないが、「笑点」でも座布団運びが画面に映ることで和むみたいな効果はあると思うので、(私に興味のない方も)そのようなつもりで安心しておふたりの話を聞いていただければと思う。

いうれいは給水塔をみて育つ
草の穂ははるかな舟を患へり
たくたくと鳴るのも檸檬きみどりの
tttふいにさざめく子らや秋
海苔あぶる額に海苔の風が来る
星が流れると誰かの目にかはる
あらすぢが見ゆ河骨のあかるみに
        鴇田智哉『エレメンツ』より
 
よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから
寝てしまうならすぐに帰ればよかったな 飛行機と公園の一日
メールしてメールしている君のこと夕方のなかに置きたいと思う
セロテープカッター付きのやつを買う 生きてることで盛り上がりたい
遠くにあるたのしいことの気配だけ押し寄せてきてねむれない夜
                   永井祐『広い世界と2や8や7』より



自分の句集については3000句から900句まで絞る作業が終わり、そこでちょっと頓挫しているが、2月に入ったらここから600句くらいまでは減らしながら構成していく。1冊目と2冊目あわせても400句いかない自分にとってはつまり、3冊目でけっこうなオオモノをつくる意気込みで、それを誰かのためでなくがんばるなんて、そうとうなパワーがいるから、こういうときほど誰かに会いたい。パワーをくれ。