風呂に入っている夫に、洗面所から「おかげんはいかがですか」と声をかけたら、「ああ、うん」みたいな返事がかえってきて、そこは「いいあんばいです」だろ、と思ったが、ちょっと待てよ、これって佐藤家ルールだったのか?と思い、「うちの実家ではね、風呂入ってるときに「おかげんはいかがですか」って聞かれたら「いいあんばいです」って言うことになってたんだ」と教えた。夫は面白そうに納得していた。どうも、佐藤家ルールだったらしい。
翌日風呂に入っていたら夫に「おかげんはいかがですか」と聞かれたので「いいあんばいです、ありがとう」とかえした。夫は、うまくいったと思ったようで、喜んでいた。ああこれは挨拶で、定型で、約束なのだな、と思った。テンプレの応酬はもはやもとの言葉の意味を失っていて、「やりとり」というコミュニケーションとなる。動物が、親愛で鳴き交わすのに似ている。
英語の豆知識記事を見ていると「英語では「いただきます」「ごちそうさまでした」「ただいま」「おかえり」はありません」と書いてあり、それぞれの状況に応じた言い方がそれに続く。意気揚々と「これさえ覚えれば!」と思っている学習者にとっては残念ながら臨機応変にがんばらねばならなくなるが、呪文のような決まり文句を覚えなくてもコミュニケーションが成立するので暗記が減ってよいとも言える。が、私はわりと挨拶のテンプレが好きなのかもしれない。そのシーンで、その言葉を発しさえすれば、コミュニケーションの仲間入りできたように感じられたり、相手に気持ちが伝わったりするからか。
今まで好きな相手に「好き」とか「愛してる」と言ってきたけれど、相手は困ったり話をそらしたり顔芸でこたえてくれたりすることが多かった。これは我々にとって「愛してるよ」「私も」みたいなのが定型表現となり得ていないからで、言葉の意味を真に受けて赤面してしまうということなのだろう(イタリア人はこのあたりが定型化されているのかな)。同じ気持ちで「にゃあ」とか言うと、「にゃあ」とは返してくれたりする。「にゃあ(愛してる)」「にゃあ(僕も)」ならいけるとすれば、意味を抜いた方がコミュニケーションが取りやすい場合もあるわけである。内実は「にゃあ(愛してる)」「にゃあ(バイオハザード楽しかったな)」かもしれないが、まぁ解釈は自由だ。
風呂で思い出したが、小さいころ親に風呂に入れてもらうと必ず「お父さん(またはお母さん)、お風呂に入れてくださって、ありがとうございました!この御恩は、一生忘れません!」と言うことになっていた。「お風呂に入れてくださって」だからそのレベルの年齢なわけで、そんな幼児に毎日「この御恩は一生忘れません」と言わせていた親はどうかしてると思わなくもないが、今になって思い出した。
どうやって風呂に入れてもらっていたかは覚えていなくても、「この御恩は一生忘れません」という、おおげさなお礼のテンプレを、私は一生忘れない。