私ははじめ母親に硬筆を習っていた。スパルタ指導で、めったに花丸はつかず、ひたすらおけいこ帳に平仮名を書き続けた。その甲斐はあって、鉛筆で平仮名であればわりと上手に書けるようになったが、筆は別だというので、小学3年生から書道教室に通い、小学6年生で松山に引っ越してからも続けた。高校の芸術は音楽を選択したが、結局高校3年生まで書道教室に通い、月に3〜4回、筆に墨をつけて書いた。
系列の書道塾が毎月出品する雑誌があり、基本的に毎度1級以上は上がるが、年が変わるとまたリセットされた。私は好きなタイプのお手本のときは熱心にやり、そうでないときは研究部など別の作品を適当に書いたり、自由題のときは自分の俳句を書いたりしていたから、たいして上達しなかった。なぜちゃんと行書や草書、隷書が書けるように練習しなかったのだろうと今になって思うが、逆に言えば「字を書くこと」が趣味だったのかもしれない。趣味とは、特段上達しなくてもやり続けられることだろう。私は体を動かすことが好きなので、その意味でも書道はよかった。
先生は放任主義のおばあさんで、ジュリちゃんというヨークシャテリアを飼っていた。ジュリちゃんは奥の部屋にいるか、先生のところで座っていた。たまに生徒のまわりをうろうろするので、先生は「ジュリちゃん!」と叱るのだが、先生は先生の机から動かなかった。ジュリちゃんの好きな小さいぬいぐるみのことを、先生は「きないワンワン」と呼んだ。「きない」は「黄色い」の方言で、そうか「きなこ」は「黄な粉」か、と感動した覚えがある。たまに愛媛大学の院生の男の人が教えに来てくれて、先生とは指導方針が違うなと思ったが、温厚な人で、あまり気にはならなかった。大東文化大学卒とのこと、それが書道で有名な大学というのもそこで知った。
小学生向けの教室だったので、高校生は私の他に一人いたかいなかったかくらいで、ふだんは大きい作品を書くこともできなかったし、とくに書きたいとも思わなかった。高校1年生のとき、退職する世界史の先生に頼まれて坂村真民の詩を書いたが、それくらいだ。高校部のお手本で顔真卿や王羲之の名前は聞いたが、抜かれた文字を見て練習するだけだったから、どれが誰の字かは覚えず仕舞いだった。
先生が教えてくれたことで、ひとつ印象に残っているのは、「白」の話だ。「白が足りん」「白が多すぎる」など、画面における空白をどこにどれだけ取るか、それをたびたび言われた。書いている文字を見るのではなく半紙全体を見なければならず、要は俯瞰が大事ということで、わりと子供扱いでない指導だったと思う。
神戸に住んでいた小学生のころ、私は毎年父の大学の学祭を見に行くのが楽しみだった。父は当時、私立の女子短期大学の書道部の顧問だったので、学祭では書道展示会場に行き、「佐藤先生の娘さん」ということでかわいいお姉さんに囲まれて、お菓子などをもらい、ちやほやされるのが嬉しかったのだ。ある年など、学祭にはやく行きたいがあまり、下り坂を走って転び、唇を切って血をだらだら流して下校した。実はその傷跡は今も残っている。
そういうわけで、書道は見ても読めなかったが、ちやほやされていたので悪い印象はない。書道の展示は内容を読むことが第一目的ではなく、字のバランスや筆づかいを美しいとか面白いとか思うもののようなので、文章を読むのが苦手な私でも楽しめる。大人になってから書道の展示を見ると、書道教室の先生の「白」の話もよくわかった。
自分が俳句や言語による作品をつくることは、表記されたときその画面に実現する文字の世界への愛着によるところが大きいかもしれない。字が紙に配置されているのを見るためには、まず字がないと始まらないからだ。最近は自分や他人の本をつくることに関わっていたため、主に活字の文字組の美しさについて考えることが多かったが、元来の書き文字好き特性も今後発動させていきたいと思う。具体的にはまず書道を習い直したくて、方法を検討中です。