2021年6月27日日曜日

2021.6.27 妹

自分は顔に似合わず、負けず嫌いではない。小学校低学年のころセーラームーンごっこで水野亜美ちゃん役を譲らなかった、という話をあとから聞いて恐縮したことはあるが、それも別に負けず嫌いというのではなく、単に自分にマーキュリー以外の選択肢がなかったからだと思う。少なくとも今まで、勉強や運動で、俳句でさえも、誰かに勝ちたいとか、誰かに負けて悔しいとか、思ったことはない。向上心自体はあるので、「目標3位」「賞を獲るぞ」みたいなことは思うけれど、目標が達成できなかったときに、ライバルを憎んだ経験はない(審査員に文句を言うことはある)。妬みという気持ちが根本的に欠如しているし、競争を持ちかけられそうになるとすぐ降りる。中学時代バレー部で、同学年8人中6人がスタメンとなるとき、自分は副部長だったが能力的には6番目〜7番目くらいのかんじだったので、補欠にしてくださいとコーチに泣いて頼んだことがある。それくらい競争が怖い。

負けず嫌いでないことのよさとして、自分より能力の高い人と一緒にいるのが大好き、というのがある。能力というのは人それぞれなので、相手より自分の方がすぐれている部分もあるから一緒にいてもらえるわけだが、とくに自分には記憶力が乏しく、難しいことを理解する能力が足りていないと感じるので、家庭生活や「翻車魚」などはその点を補ってくれるメンバーと一緒にやっているというかんじだ。それは自分を大きく見せたいがための見栄などでは毛頭なく、たいへん心地よいからそうしているんであって、しかしなぜ自分はそういう現場を心地よいと感じるのであろうか、と考えた。

私には4歳下の妹がいる。どこかにも書いたが、喧嘩をしたことはほとんどない。4歳離れていればとくに不自然なことではないと思うが、妹と接していて大きく印象に残っていることが2つある。

1つ目は、私が小学6年生、妹が小学2年生のときのことだ。
松山の小さな小学校に転校した私たち姉妹は、神戸の小学校となにもかもが違うことに戸惑いながらも順応しようとしていた。まだ幼かった妹がそのとき何を考えていたかはわからないが、少なくとも私は(ヤバい、ここではすべて1番になってしまう)と思った。神戸の新興住宅地のマンモス小学校では、何をやっても自分よりできる子がいて、とくに何かで目立つということもなかったが、松山に来たら、絵を描けば入選するわ、字を書けば金賞だわ、勉強もできてしまった。はじめは嬉しかったけれど、途中からクラスの女子の嫌がらせも受けるようになり、軽い恐怖を味わった。なかでも自分自身恐怖だったのは、ピアノ伴奏だった。
神戸の小学校では、ピアノのコンクールですごい賞を獲ったりする子もいて、音楽会でのピアノ伴奏をするのはそういう子だった。私などは家にクラビノーバしかない、普通に習い事としてやっている程度、のほほんとしたものだった(小学校5年生でツェルニーとソナチネ、と言えばわかる人にはわかると思う)。転校するなりコーラス部に誘われ、歌が好きなのですぐ入りますと言ったはいいものの、ソナチネが弾けると言うとすぐさま伴奏を仰せつかった。小学生ながらに(私のレベルでいいのかよ)と思った。幸い、その年のNHK合唱コンクールの課題曲のピアノはそこまで難しいものではなく、そればかり練習して、どうにか酷いことにはならず弾けた(自由曲はアカペラ曲だった)。授業で先生の伴奏を聞くと、先生自身ピアノが苦手で、しかも学校にもあまり上手な子がおらず(本当はいたのかもしれないが、少なくともうまい人がその本性を表すことはなかった)、誰でもいいからマシな子を見つけることが急務だったというのが、わかってしまうほどのものだった。
NHKのコンクールは終わった。が、自分が本当に辛かったのはここからだった。音楽会での全校合唱の伴奏が待っていたのだ。「歌はともだち」という、タイトルに反して短調の速い曲で、私にとっては難しく、毎日この曲ばかり練習した。全校合唱だから全校の練習があり、そのときはズタボロで心配もされた。本番はギリギリどうにかピアノが気にならない程度までにはなったが、どうがんばってもノーミスで弾くことはついにかなわなかった。
そのころ、小学2年生の妹が弾いていたのは湯山昭の「チョコ・バー」である。→コチラ
短い曲だが、私も楽譜を見れば、どの程度の難易度かはわかる。今まわりを見回せば、少なくとも妹が天才というほどではないことはわかるが、このときの自分ははっきりと(私はピアノは凡人だ。妹は才能がある)と感じた。私の人生で最もピアノを弾いたのはこの1年であり、自分の中では一番うまかったけれども、この小学校から受験して女子でただ一人入った附属中学校には、ピアノのうまい子がわんさかいて、心底安心したのを覚えている。実際妹は小学校中学年から全校の伴奏を買って出て、私と同じ中学に入学しても毎年合唱コンクールの伴奏をしていたから、私の見立ては間違っていなかった。妹はコード進行の勉強をする何冊かセットの本も通読し、絶対音感もあって、中学では合唱曲を作曲したりしていた。私は結局高校まで毎週ピアノ教室に通ったが、練習はほとんどしなくなった。音楽は私じゃなくていい。妹だ。そう思った。

勉強に関しても妹は、私が小学校2年生で習う九九を一緒に覚えていたし、小学生で横山光輝の歴史マンガを次々買い揃え登場人物を記憶していくのを見るにつけても只者ではない雰囲気だった。一番驚いたのは、私が高校1年、妹が小学6年のある日のことだ。たまたま部屋に入ってきた妹に、その日習ったばかりの複素数平面を説明したところ、「あ、なるほど、じゃあここが1-iってことね」といったかんじで、グラフを見てすぐに正しい位置を指し示したのだ。今思えば、もし自分が妹だったとして、同じことを姉に教わったら、自分もそのくらいのことはわかったかもしれない。けれども、妹が虚数の概念を瞬時に受け入れたことへの驚きは、学校でだんだん難しいことを教わって人はかしこくなっていく、というのではなく(それはもちろんそうではあるのだが)、人間の特徴としてかしこさを備えた人がいる、ということを実感をもって理解するのに充分だった。
その後も妹はやはり、圧倒的に勉強、とくにテストができた。中学のときに、姉が俳句をしているという理由で俳句甲子園のエキシビジョンマッチに出場させられて、もう俳句はいいや、と言っていたが、数年前に米光一成さんと私の句会イベントに参加してふたりともの特選をとるくらいの句はつくれていた。

自分はある時点で学校では相対的にピアノや勉強が得意な側だったが、家庭内においては相対的にピアノや勉強が苦手な側であり、この"相対的に"といった感覚を、妹のおかげで身に付けたことが、負けず嫌いになり得なかった理由だと思う。実際親も、姉は努力、妹は天才、といった見方をしていた。自分としても、それでよかった。私は体育がまあまあできたり、字がまあまあうまかったりしたから、妹と役割を分担するような気分だった。それが現在の、かしこい人と一緒にいるのが安心という気持ちにつながっている。実際、夫が夫となる前、「横山光輝の三国志は全巻読んで覚えている」と言うのを聞いて、これは妹に似ているから家族になれる、という理由で結婚した。いい判断だったと思っている。

そんな妹がどんな大人になったかというと。現在はクリエイターと結婚し、一般企業に勤め、料理に凝り、ベランダで植物を育て、趣味で語学を勉強したりしている。世界は広く、妹くらい音楽ができる人や、妹くらい勉強ができる人は、実はたくさんいたのだった。では、姉の方はどうだろう。

今後も君とは役割を分担していく。誕生日おめでとう。句集読んでね。