2019年4月12日金曜日

2019.4.12 マラソンと自己肯定感

先週の土曜日にSさんを誘ってマラソン大会に参加した。最近では毎週マラソン大会的なものが各地で開催されていて、そういうのをとりまとめて紹介するサイトがあり、自分の行ける日時場所のものに申し込めるようになっている。Sさんは10kmまでならいけます、とのことだったが、5kmにしてもらった。5kmというとマラソンのなかでは最短くらいだ。その日も、30km、ハーフ、15km、10km、5kmから選択できた。

5kmにした理由は、単に10km以上は走ったことがなかったからである。私の中学高校時代のマラソン大会は距離が異常に短く、中学が2km、高校が1.5kmだったため、練習で家のまわりを少し長く走るときでも、せいぜい5kmかそこらだった。逆に言えば、5kmであれば、最悪練習ゼロでも走りきれるだろうと思った。それが10kmになると、練習できなかった場合、怖気付いて大会前につらい気持ちになり参加が危ぶまれる可能性がある。ここ最近の完全なる運動不足を少しでも打開することが目的なのだから、まずは完走して、これからランニングを続けるのにはずみをつけたかった。

しかし練習では、走り出しても3kmくらいでやめてしまうなど、5kmちゃんと走ったのは大会まで2週間を切ってからだった。しかも、走るたびに筋肉痛になるので、とても毎日は走れず、結局大会前に5km完走したのは3回のみだった。

さらに私は、走るたびに、かつて走れた自分のイメージと戦わなければならなかった。中高時代のマラソン大会は、短い距離だったとはいえ、中学3年のときは学年女子80人中2位、高校3年のときは学年女子220人中1位だったのである。走るなら速く走りたいのだった。

ところで、あなたは、人生で一番嬉しかった記憶はなんですか。最近たまたま句会のあとの飲み会で、この話になった。何度も言っていることなので、またかと思われる方もいらっしゃるだろうが、私はこの高校3年のときのマラソン大会での結果が、もうすぐ34年になる人生で一番嬉しかった。俳句甲子園で優勝したときよりも、初めて彼氏ができたときよりも、句集が完成したときよりも、結婚よりも、である。

またしてもところで、小さいころ読んで好きになった絵本というのは、その後の人生に深い影響を与えるということを言われることがある。あなたが好きな絵本はなんですか。私が好きだったのは『ちょろりんのすてきなセーター』(福音館書店)だ。とかげのちょろりんが、ある日ショーウインドウで見たすてきなセーターがほしくてたまらず、一所懸命アルバイトをして手に入れるが、それはへび用だった。しかし、とかげが着られるようにかえるのおばさんに直してもらって、最終的には着られるようになるという話だ。うちの家の指導方針も、それに近いものがあった。「努力すればある程度はできる」。そして私は努力をし、努力の結果、たしかになんでもある程度はできた。ある程度というのは、中の上〜上の下、学校の勉強は上の中くらいだった。

(俳句甲子園で最優秀句に選ばれたときは、嬉しかったが、内心自分の句のどれかかもな、と思っていたし、逆に、これは運だな、とも思った。たくさんつくったり、がんばってみんなで対策したりしたけれど、”努力が報われた”というかんじではなかった。それはその後、俳句の賞に応募したり、句集が賞にノミネートされたりしたときにも感じた。努力が結果に直結しない。芸術はだいたいそうだろう。なんなら俳句は傾向と対策が結構可能なジャンルだが、それで特選などを獲ってもたいして面白くない。)

でも、マラソン大会は違う。高校1年で7位、2年で5位だったから、3位を目指して練習した。たぶん、雨の日以外は毎日走ったと思う。それで結果が1位だった。1.5km、5分47秒。最近この話をしたら、なんでそんなタイムまで覚えてるんですか、と言われたが、人生で一番嬉しかったからに決まっている。運動部の人たちが部活を引退し、受験勉強を始めたからというのもあったが、客観的に見て、女子で6分(4分/km)切れれば、選手じゃないなら速いと言っていいだろう。俳句で賞をとるよりも、多くの人にとって意味がわかる記録だ。体育館で、3年の男女1位が代表で賞状をもらった。陸上部でもハンドボール部でもない、俳句部の私が、だ。これは、小さなちょろりんでも、素敵なセーターを着ることができる、そんなかんじかもしれない。

ここでようやくはじめの話に戻って、今回の5kmマラソンである。走るなら速いのがよかったが、運動不足も運動不足だ。女性のふつうのタイムとはどれくらいだろうと調べたら、あるサイトに31分54秒とあった(男性は28分36秒)。ならばとりあえずは6分/kmで、5km30分と設定し、練習で走ってみたら、それは余裕だった。結構がんばったら26分10秒、まあまあがんばったら27分2秒だった。大会当日は、26分台くらいを目指すことにした。

当日、暑いくらいのいい天気で、川沿いなので清々しく、コンディション的にも悪くなかった。しかしコースは直線、しかもスマホを置いて走ったのでラップタイムが計れず、はじめの1kmくらいを男性陣のうしろに位置するかたちで、たぶん4分半/kmくらいで走ってしまった。そこから4kmはひたすら辛く、もう少し意志が弱かったら途中棄権しかねないくらいにバテた。ラスト200mくらいで少し持ち直しはしたものの、本当に疲れただけに終わった。記録は25分20秒。平均すれば5分4秒/kmなので、思ったよりは速かったけれども、走ったあとの「こんなはずじゃない」感が強かった。

たぶん体感として、4分40秒/kmくらいで5km走りきるのが、自分の理想のかんじなのだと思う。毎日しっかり3ヶ月走れば、今でもそのペースでいけるという気もする。でも私は、今回は努力ができなかった。客観的に見れば、そんなに練習しないで30代女子が25分台で走れれば速い方で、たしかに当日もすごく速い人と楽しく走る人の真ん中に位置していた。27人中9位、女子の中では3位である。もし、これが努力を重ねての結果だったら、素直に喜べただろう。

高校時代は、理想の自分と、努力をして底上げした自分をイコールで結べたことで、自分を好きでいられていた。当時の私のつよい自己肯定感は、努力ありきだったのだ。鬱になってから、うまく努力ができなくなって以降、自己肯定感をマイナスから積み直してきたけれど、ここへきてまた、かつての自分に阻まれているように思う。人によっては、もともとすごくかしこかったり、走るのが速かったりして、努力するのとしないのとでそんなに差がなかったり、あるいは努力を努力と思わなかったりすることもあるのだろうが、私のように努力をするのとしないのとでできることに大きな差があるタイプの人は、努力をし続けるか、しないでい続けるか、どこかでギャップに苦しむか、なかなか難しい。

ここで私は、今からまたすごく努力をしてみることができるかもしれない。でも、言い訳に聞こえるかもしれないが、それをしないでも自分を許す、さらにはそういう自分も好きになれるかどうかが、そんなに高くなくてもいいから健全な自己肯定感を育むことにつながるのだろうと思う。「だらだら努力をする」「努力をしたりしなかったりする」、「努力したバージョンもしてないバージョンも自分」みたいなのが、大人なのではないか。大人というか、余裕を持って自分を愛すること、か。

でも、じゃあ今度はゆっくりでいいから10km走ってみよう、となるかと思ったけれど、その気持ちは今のところまったく湧かない。なぜかというと、走っていることに飽きるからだ。だいたい5kmも長すぎる。俳句も短いから好きなので、次出場するにしてもまた5kmがいい。次の目標を立てるとすれば、もう少したまに走るのを続けてみて、同じタイムでいいから爽やかに走りきること、くらいか。でも少しまた欲は出るから、25分ちょうどくらいを目指すか。

と、こんなことを書いていたら、本当なら走りに行こうと思っていたのに、こんな時間になってしまった。私はまず、走りに行けない自分を責めるのをやめるところから始めなければならないし、走りに行った自分を過剰に褒めるのもやめなければならない。あと、ればならない、とか言うのもやめろよ、な。もっとナチュラルに、機嫌よく、だよ。

マラソン後に、Sさんと夫と3人で食べたハンバーガーは美味しかった。あとから思えば、一緒に走ってくれる友達がいたことと、夫が応援に来てくれたのが一番嬉しかった。