2025年3月10日月曜日

2025.3.7-9 須磨・姫路・岡山・倉敷

3/7(金)
ひかり号の自由席で西明石へ。ホテルに荷物を置いて須磨海浜公園。
むかし来た砂浜、と思い出せはしなかったが、幹線道路には記憶があった。
どこかの高校の、たぶん一学年全員が来ていた。レクリエーション行事だったのだろうと思う。

神戸須磨シーワールドへ。水槽にはりつくタコの吸盤、圧巻。好きな魚は真鯛。詩にもしたが、真鯛は大きくていい。シャチのショーを見ることができた。シャチは二頭いて、つやがあり、すごく大きかった。観客席からシャチを見ると、そのむこうに海が見えて、サンフランシスコの球場・オラクルパークを思い出した。


ショーのあと、展示2周目。触れるコーナーで小さいエイに触ったら、やわらかかった。小さいエイは、活発だった。

夜は自由港書店プロデュースの「春の一粒」@若宮食堂。お酒とお食事をいただきつつ、俳句と詩の話。参加してくれたお子さんが雛壇を見て、「幼稚園のとお雛様の場所が逆だよ」とすぐ気づいていて、その観察眼があれば俳句はすぐに書けそうだなと思った。



 
3/8(日)
新快速で姫路へ。姫路文学館「生誕120年記念 詩人 坂本遼展」を見た。坂本遼は関西学院大学在学中、その方言詩の朴訥さを草野心平に見出され詩誌「銅鑼」に参加、詩集『たんぽぽ』を刊行したが、詩集はその一冊のみ。のちにこどもへの作文指導を生きがいにした、厚く深い心の人。いい展示を見た。常設展には、俳句では赤尾兜子と永田耕衣がいるので(私も播磨育ち)、嬉しかった。


姫路城は外から眺めただけで、またひかりに乗って岡山へ移動し、大森静佳さん企画の「晴れの国 短歌の午後」を聴く。第一部が歌会、第二部はクロストーク。最後に平井弘さんからの提言があった。

 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや 山中智恵子

あの天体が「月」と呼ばれるようになったばかりの、なんの意味も付随しない言葉「月」を、もう一度思い出そうというお言葉。「月」を季語として用い、その意味の層を信じてやってき(てしまっ)たので、非常に身に沁み、ありがたかった。歌会に提出された歌に破調が多かったことについては、今までご自身がやってきた「短歌の関節外し」が報われたと、そして今後も「ゆるやかに定型を外してゆく」ことで、「どこにもない歌を」書いていってほしいという旨のご発言。平井さんだからこその未来の見通し方だった。

夜は詩型越境飲酒集団「のんべえ大学(略して「のん大」)」の仲間と打ち上げ。御前酒、赤磐雄町などよかった。関係者打ち上げと合流し、勤勉なのん大生なので5月の別イベントの打ち合わせをした。


3/9(日)
久しぶりに岡山駅の西側に宿泊したので、懐かしくなって奉還町商店街を散歩。




11時集合でのん大の仲間と倉敷へ。私は倉敷も本当に久しぶりだった。昼ビールを飲み、大原美術館蟲文庫へ行き(『こゑは消えるのに』を置いてくださっていた)、散歩ののちゆずの日本酒を。夕日の差すカフェではかなしい音楽が流れていて、どうでもいいことを話したり、話さなかったりしながら、5人で時間を過ごした。それがとてもよかった。展示では、ピサロの「ポントワーズのロンデスト家の中庭」が好きだった。




岡山駅に戻って、またみんなで日本酒やビールを飲み、鰆を食べて、帰りはのぞみの指定席で帰京した。日本酒はHARE、ビールは独歩だった。

  春は夕暮 大人は夢を叶えられる  文香

2025年3月4日火曜日

2025.3.4 「CARE」整理と再始動のおしらせ


このブログは前ブログ「さとうあやかとボク」のあと2017年の1月に始めたもので、8年が経ったので、一度整理することにしました。初期は毎日の日記を公開していたのでそれは非公開にし、2019年以降は記念として2つずつ記事を残しました。(「さとうあやかとボク」は現在非公開にしてあります。)

タイトル「CARE」とは「ケア」であり、書くことによる自浄効果を第一義として始めたブログです(暗に「彼」でもあったのですがそれはまあいいです笑)。何もできなかった日にも「何もできなかった」と書けば、生きていたことは残る。ブログとは私にとって、自らの生存した刹那を字として確認する場所でした。よって有益な情報はほとんどないため、非公開にしたところで、世界にとってマイナスになることはありません。

ここ15年くらい、私は自分の存在意義を「有益でなさ」に見出してきました。自分自身、いわば「くだらないもの」を愛好してきましたし、これからもそれは変わらないと思います。一方で、無価値の価値を標榜することは、自分自身を低く見積もることであると同時に、努力が続かないことの言いわけにもなっていました。

努力することに挫折し続けた結果、努力だと思わずやれることは何かがわかったので、それは今後も大切にしていくとして、これからはなにか小さなものでも積み重ねていきたい。ブログでやるのが適切かはわかりませんが(突然サービスが終わるということもありますし)、自分にとっての新しい「CARE」のかたちを考えてみたいと思います。


   砂苔に乙巳の春来たるなり  文香


2024年11月20日水曜日

2024.11.20 『君に目があり見開かれ』の、10年後

この前、カラオケに行った。句会後の、飲み会のあとだ。
鴇田さんと若くんと私で、だ。

福田若之とは2011年『俳コレ』で私が福田若之100句の小論を書くときに親しくなった。就活に失敗したまま大学を出た私は、どうにか第一句集『海藻標本』を出し、その1年は東京で粘ったが、その後2年間松山に帰り、とくにあてもないのにまた東京に出直してきた。それが2011年である。当時私が住んでいた笹塚の1Kのアパートで、生駒大祐と3人で遊んだ日の写真には、折り畳みのすのこベッドが写っている。狭かったが友達は呼べるようにしたかったから、普通のベッドを置かなかったのだ。この写真はお気に入りに入れていて、今でもたまに見る。

その後少し高円寺に住んだ。第一期guca時代。死んだゴキブリの処理ができず、雪舟さんが我が家に駆けつけてくれたのもいい思い出だ。このとき夢を語った太田ユリは左右社でどんどん夢を叶えている。雪舟えま『地球の恋人たちの朝食』、ついに書籍化。『**のうた』シリーズ、いいですよね。

10年前の2014年11月20日、第二句集『君に目があり見開かれ』が出た。

 手紙即愛の時代の燕かな
 歩く鳥世界にはよろこびがある
 風はもう冷たくない乾いてもいない
 冬晴れて君宛の手紙はすべて君に
 また美術館行かうまた蝶と蝶

そのころの私は、中野新橋のマンションに、自分より5〜10歳若い友達を呼んでは句会や鍋パーティーのようなことをして、元気を出していた。毎回写真を撮った、それらもお気に入りに入れてたまに見ている。飛騨高山に旅行に行ったのも懐かしい。そのとき一緒に行った黒岩徳将の第一句集『渦』が今年出た。青木ともじの第一句集『みなみのうを座』が、もうすぐ発売になる。一方で自分と同年代の人たちは、とっくにちゃんと社会人をやっていた。

鴇田智哉第二句集『凧と円柱』が出たのも2014年だった。田中裕明賞は誰がどう考えても『凧と円柱』だと思っていたが、蓋を開けてみると小川軽舟・岸本尚毅のイチオシは『君に目』で驚いた。あれはありがたいことだった。もしあのとき、この句集が完全に無視されていたら、私は俳句から離れていたかもしれない。自分にとって面白かった『凧と円柱』がちゃんと田中裕明賞を受賞したことも、よかった。

2014年、私は29歳だった。
俳句を書くこと、人を好きになること、酒を飲むことしかできなかった20代だった。

今もあまり変わっていないけれど、最近は、自由詩を書くことを覚えた。

若くんが「secret base〜君がくれたもの」を入れたから、私も歌った。
ハモりもしたが、ユニゾンのサビこそ素晴らしいのだ、この曲は。

君と夏の終わり 将来の夢 大きな希望 忘れない
10年後の8月 また出会えるのを信じて
最高の思い出を         
ZONE「secret base〜君がくれたもの」


 冬木立しんじれば日のやはらかさ   『君に目があり見開かれ』




2024年5月27日月曜日

2024.5.27 5/17~19 松山・今治

ここ最近、旅づいている。
2月の博多・久留米、4月末に山口、5月3〜6日は神戸・宝塚・京都。5月17日〜20日は松山・今治。6月は小野・大津、7月は香川、8月はまた松山、10月京都、11月静岡、の予定。旅のことを書き残していかないといけないな。

とりあえず、先日の松山・今治の話。
まったく仕事と離れて、帰省を兼ねての旅だったので楽しかった。

歌人の伊藤一彦さんと大森静佳さん、研究者の細川光洋さんが今治で若山牧水トークをするよね、という話を、宮崎大の中村佳文先生と飲んだときにして(その飲み会とは万葉集研究会飲みで、私は両親の代打で参加)、それなら松山・今治で会いましょう、ということに。ちょうど母は仙台で俳句の所属結社「澤」の大会があるというので、私とは入れ替わりとなった。


5/17
松山空港着。空港まで高校1年生のときの担任のK先生が迎えに来てくれた。K先生は現在は校長職、愛媛大学で2年間教えている。研究室でお話しした。あれから23年か。
大学までは父親が迎えに来てくれ、いったん帰宅後、父と私と佳文さんで道後のいよ狸飲み。ここはカメノテやチャンバラ貝などがある。カメノテは万葉集的には馬声蜂音石花蜘蛛荒鹿の石花(せ)。酒は京ひなの一刀両断など。

5/18
朝から佳文さんと父と3人で道後散歩。道後公園に青鷺がいるのを、父が勝手に「あをちゃん」と名づけてよくfacebookにアップしており、それを見に行くことに。堀にはたしかに青鷺がいた。20年ぶり?に湯築城址に登った。


午後は大森静佳・土岐友浩さんが到着し、父の案内で子規博をまわった。2人は道後温泉に入り、道後ビールを飲んでから大街道の漁恵丸へ。カリスマ漁師から魚を仕入れている店で美味しかった。酒は初雪盃(純米吟醸)、石鎚(純米吟醸)、一刀両断(辛口)、賀儀屋(純米大吟醸)。2軒目はmarineccoでワインを。

5/19
父と朝7時に家を出て特急で今治へ。岩波文庫で『みなかみ』の部分をざっと読んだが、だにやら泥棒猫やらひな人形やらえらい面白かった。午前は伊藤さんの講演、大森さん細川さんとのトークショー。牧水の五七調、破調が、伊藤さんの音読で心地よく入ってきた。

  ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り 若山牧水『みなかみ』
  全身にくる会いたいという気持ち山ですという山の迫力 谷川由里子『サワーマッシュ』

一首目は『みなかみ』の一首目の山の歌。二首目は大森さんが現代の山の歌として最後に挙げた歌で、牧水ファンの方がみななるほどと納得されている様子だったのが感慨深かった。



ランチ後、岩城島へのクルーズは船がかなり揺れて驚いた。かるい雨。肌寒かった。
牧水の歌碑に群馬の谷川岳を献杯。レモンを購入した。
 
夜は宴会。各地の牧水顕彰会のみなさんが酒の差し入れを持ってきているのがよかった。とくに愛知の方々はお揃いの青い法被で参加しておられ、外部からの参加者である私も楽しくお酒をいただいた。2次会、3次会と続いたようだが、私は特急で松山に帰った。

2023年12月26日火曜日

第四句集『こゑは消えるのに』(港の人)のことと、写真展のおしらせ

集大成などと謳ってもみた『菊は雪』から2年半でもう次の句集を出すというのは、満を持しての刊行が通例の俳句世界において顰蹙を買うのは想定の範囲内だが、それでも刊行するに至ったのは出さないといけない個人的な事情があったためで、ここではそれについて少し書く。

本当は、アメリカでの言葉に関する経験についてのエッセイ集をつくる予定だった。それにあわせてアメリカの句をまとめて句集をつくろうと思っていた。構想の時点ではエッセイ集の付録か、間奏句集でいいと思っていた。が、結果として、エッセイ集はギブアップし、小さいながらも単行本の序数句集だけが完成した。

エッセイ集が出なかった理由はいくつかあるが、一番の原因は、文章が全然おもしろくならなかったことだ。アメリカにいた一年のうち半分くらいの時間は鬱だったのでいろいろ思い出すことが辛く、おもしろかった部分だけを抽出するには誇張するか虚構にするしかなく、自分にはそれができる技量がなかった。

一方、俳句は既に書けていた。 苦しい日々であっても、〆切さえあれば俳句は書ける。書いてきた。パターンで書ける俳句や敗戦日、という句を書いたのは誰だったか、いやはやパターン様々である(もっとも自分は内容に更新があれば書き方に旧来のパターンを用いることに抵抗はない)。海外詠の前例はいくらでもあるが、佐藤文香の海外居住詠には前例がないから、佐藤の句の第一読者である自分は、作品が記録以上の価値を少しでも持ちさえすれば悪くないと思えた。

句集の編集はすぐだった。今回はたった一年間の作品のまとめで、料理でいえば「さっと煮」的な趣を大切にしたかったため、無闇に厳選したり推敲を重ねる必要がなかった。少し気を配ったのは、刊行後日の浅い第三句集『菊は雪』の続きものとして読めるよう仕立てること、同じ版元から出版した第二句集『君に目があり見開かれ』とセットにも見えるような仕掛けを用意すること、くらいだろうか。
  

相変わらずデザインの評判がいいのはデザイナーの吉岡秀典さんにほとんどお任せしているからで、今回の要望は「アメリカ風でなくアメリカにしてください」のみ。 ジャケ買いして読まなくても価値はあると思うが、中身も少しは見てもらえるとありがたい。章タイトルの英語の監修は詩人で翻訳者のWeijia Panさんにお願いした。アメリカで得た素晴らしい友人の一人だ。

そうそう、住んでいたところの雰囲気の参考に、とデザイン打ち合わせに一応持参した写真をずいぶん使ってもらうことになり、これはなかなか嬉しかった。表紙の写真も私が撮ったもの。

嬉しいついでに、小さな写真展をやることにした。

2024年2月2日(金)〜2月12日(月・祝)


















会場のmonogramという写真屋さんでは、幼稚園・小学校の同級生である東尚代が店長をやっている。今回、展示のほとんどを彼女に任せるつもりだ。

長く生きているといろいろなことが起こる。生きて帰ってきたのだから、何をやってもいい。

アメリカから帰ってきて、また日本で1年と少し生きることができた。いろんなところへ行き、好きな人と会えて、2023年は本当にいい1年だった。句集はできてよかった。詩集もできてよかった。おやすみ短歌も。



みなさん、あたたかくして、よい年末年始を。

2023年11月10日金曜日

第一詩集『渡す手』(思潮社) あとがきに代えて

詩集をつくった。

2014年、だからもう9年も前になるが、ウェブ連載のまとめとして『新しい音楽をおしえて』(マイナビブックス)というオンデマンド版の詩集をつくったことがある。今回の『渡す手』はそれ以降の作品をまとめて第一詩集とし、『新しい音楽をおしえて』を初期詩集と呼ぶことにした。

「俳句しかない気がする」と「俳句じゃない気がする」という、ふたつの気持ちのあいだで揺れ動きながら創作を続けてきて、ようやく俳句以外の出力回路を正式なものとして登録するに至った。もともと言いたいことなどないが、やりたいことはまだたくさんある。

現代詩を本格的に書きたいと思うきっかけとなった詩人の岡本啓さん、「現代詩手帖」連載時にお世話になった思潮社の藤井一乃さんに相談し、おふたりそれぞれの詩集編集の方法を学ばせてもらった。詩集を編もうと思わなければ、得られない体験だった。

信頼する書き手である歌人の平岡直子さん、私にとって大切な詩集『針葉樹林』の作者である石松佳さん、そして岡本啓さんに文章を寄せていただいた。原稿を見てコメントをくれた詩の友人たち(広橋山羊さん、中邨政也さん、浦塚未来さん)にも感謝している。

デザインは第三句集『菊は雪』でお世話になった佐野裕哉さん、表紙の英訳は京都文学レジデンシーでご縁を得たCorey Wakelingさんと小磯洋光さんによる。著者である私が日本語詩のこれからを考えていくよう、アシストしていただいたような気分だ。

自分一人では到底辿り着かない一冊が出来上がったことは、願ってもない、いや、願ったとおりの幸運だ。運を摑む腕の長さと、掌のひらき具合には自信がある。
それは私の「渡す手」でもある。

2023.11.10

2022年4月3日日曜日

2022.4.2 忘れる/忘れない、残らない/残る

私は、素晴らしい経験をすると、これは思い出になるだろう、と思って、写真に撮る。

ふつう、素晴らしい経験をした結果、覚えているのが思い出なのだけれど、私は記憶力がとても弱く、すべて夢だったのではないか、というくらいに、あるいは、そんなことあったっけ、というくらいに、ほとんどすべてを忘れていく。写真を見返すことでしか思い出せないことが多く、写真を撮らない日はすべて、なかったものになってしまうような気がするし、実際そうなっている。だから、全部撮っておかないと全部忘れてしまう、と思う。撮っても、整理しないからどんどん溜まる。オーブンで焼いてはりついてぼろぼろになった鮭とか、別に写真としてはいらないのだけれど、そこにその一日がたしかに存在したことが愛しく思えて、削除できずにいる。そして、また今日も撮る。

(こうやって書いているのもそうだ。何か感じたからそれを表現したくて書く、のではなく、記録のために書く、のでもない。そう感じた自分のことを、自分が忘れないため。同じようなことを何度も書くことも、その期間ずっとそう思っていたことがあとからわかるように、と思えば、何度書いたっていい。焼鳥が食べられなくてつらい、とか。)


アメリカには、写ルンですと、カメラと、フィルムを持ってきている。カメラは、アメリカに来る前に毎週会っていたFredがくれた、ドイツのかんたんなカメラ「AGFA」。写ルンですは4つ持ってきて2つ使った。フィルムは、カラー・モノクロあわせて6本持ってきて今5本目。インスタントカメラもフィルムもこちらで手に入ることがわかったので、好きなときに持ち歩き、好きなときにシャッターを切る。ミラーレス一眼は持ってこなかった。ふだんはスマホのカメラで十分だと思ったので。

こちらにも現像・プリントのサービスはあるけれど、帰国してからすべて、友達が店長をやっている写真屋さんに持っていくつもり。フィルムカメラは久しぶりだったので、1本目はフィルムを取り出すときに失敗して、たぶんほとんど感光してしまっているから、ダメなのはプリントしないでくれ、とか言えるのもいい。何より、そのときの自分にとってどんな光景が大事だと思ったかのこたえを、帰国次第一年分まるごと振り返れることが楽しみだ。

撮った写真を見せたい相手も、いないではない。


私は残らないものも好きだ。音声は言葉になったとたん消えてしまうから、何度言っても、そこには今発されているその音しか存在しないのがいい。内容は覚えていたり、覚えていなかったりする。声を覚えていることもある。覚えている声に、言ってほしいことを言わせたりする。頭の中で。

[忘れる/忘れない]と[残らない/残る]。そこに意志を加えるか否か。
結局どの組み合わせも愛しい、ような気がする。

録音して持っていて、たまに聴く音声。
自分が書いたけれどもうほとんど開かない本。


アメリカに来て半年が経った。折り返し。

[sɯ]・[kʲi]・[da]・[jo]。

2022年2月9日水曜日

2022.2.8 信号のない横断歩道を渡るときだけ

信号のない横断歩道は、Berkeleyにもわりとある。が、90%以上の確率で、車が止まってくれる。東京より、断然だ。

引っ越してきたころは、恐縮です、というようなかんじで、頭を下げ、小走りで渡っていた。

けれども、どうも私と夫以外、誰も頭を下げていない。あるときようやく気づいたのは、頭を下げる、お辞儀をするということ自体、日本の方法だということだった。語学学校の先生が、「日本人のおじぎの角度による謝罪レベル」をおもしろ動画として見せてくれたのもこのころだった。日本人あるあるとして、笑われるということだとすら知らなかった。

小走りも必要なかった。こちらの歩行者用信号は、赤信号に変わる前にあと何秒で赤になるかが、数字でカウントされる。日本と違って、赤になるとすぐに車が来るので、あと5秒なんてときには走って渡っていた。が、こちらの人は誰も急いでいない。残り10秒もあるのに、渡らずに待っている。たまに、堂々とゆっくり渡っている人もいる。信号がない横断歩道では、いつも、誰も急いでいない。横断歩道を小走りで渡るというのもまた、自分の自分らしさが、アメリカにいる日本人っぽさと重なっていたのであった。

聞くところによれば、車の免許の試験の際、歩行者がいたら必ず止まるように習うのだそうだ。というより、歩行者がいるのに止まらないと、罰金が課せられるらしい。私が横断歩道を渡るときに、車がみな止まってくれていたのは、やさしさや気遣いではなく、ルールだったのだ。

ならばその代わりにと、止まってくれた車の運転手に対して、手を挙げたり振ったりするようになった。これが、いいのである。運転手もみな急いでないから、手を振り返してくれたりする。笑顔なのも見える。英語ができなくて心細い朝も、運転手が笑顔で手を挙げ返してくれると、それだけで涙が出そうなほど嬉しかった。

だいたい、このあたりはいろんな人種がいるから、私がどれだけアジア人然としていたところで、はじめからゆっくり話しかけてくれたりはしない。聞き取れなくて聞き返しても、「英語がわかる人がたまたま聞こえなかった」という話し方しかしてくれない。それはもっともな話で、日本でだって、いくら外国人に見えても、ふつうの大人に、子供に話しかけるようにゆっくり話したのでは、失礼にあたるからだ。私は、多少のフレーズは言えるようになったが、親切にたくさん話しかけてくれる相手には、「あ、この人は英語できないんだ」と気づいてもらえるように、早い段階で、わざとつまりながらしゃべる、という方法をとっている。が、かんたんなフレーズが流暢に言えてしまうと会話が成立しないというのは、聞き取りや単語がダメなわりに発音はマシ、という人間にとって、自分のいいところが何もなくなるわけだからわりと屈辱で、はやく聞き取れるようになりたいのだけれど、家で英語をやらないのでそうはならない。結果、はじめての場所ではだいたいの場合、おどおどしたアジア人という様子で、お会計に並んでいる。

でも、信号のない横断歩道を渡るときの私は違う。にこやかに、「ありがとね!」というかんじで、姿勢よく、さっそうと渡る。このときだけは、このあたりの立派な住人になれた気がする。

道ですれ違う犬と赤ん坊にも、笑顔で手を振るようにしている。今のところこちらでは、笑顔で手を振れるということが、自分の最大のコミュニケーション能力なのである。

2021年8月1日日曜日

2021.8.1 『菊は雪』ツアー

7月下旬に博多と長崎、大阪に行ってまいりました。句集出版後だったので、自分としては『菊は雪』ツアーと銘打っての旅行だったのですが、こんな時期なのでトークイベントなどをするでもなく、本屋さんへのご挨拶および最低限会いたい人に会うというだけのささやかなものでした。

旅行前の時点でワクチンは1度目を接種しており、直前数日も人と会う機会は最低限に減らした上で出発。帰京後1週間経過し、自分もお会いした方も罹患していないことを確認したので記録として残します。延期しなかった理由はこちら


 


博多を訪れたのは初めてでした。ジュンク堂書店福岡店では、担当の松岡さんがwebちくまの連載「ネオ歳時記」を読んでくださっていて盛り上がり(ナマエミョウジさんのファン!)、本のあるところajiroでは、店長の坂脇さんだけでなく書肆侃侃房の田島社長ともご挨拶できました。

大阪ではまず、紀伊國屋書店梅田本店さんと梅田蔦屋書店さんにご挨拶しました。 

紀伊国屋書店梅田本店

紀伊国屋書店梅田本店

梅田の蔦屋書店さんでは『天の川銀河発電所』のサイン本もつくりました。


最終日は葉ね文庫にてサイン会。お久しぶりの方や会ってみたかった方と会えてよかったです。


本当はもっといろんな思い出があるのですが、それはまた別の機会に。

旅の作品はこちらでお読みいただけます。

→翻車魚ウェブ 028*2021.8 佐藤文香「夏一覧」 
長崎4句+大阪1日目2句+2日目4句=計10句。

 

2021年6月3日木曜日

2021.6.3 第三句集が出ます

昭和60年6月3日生まれなので、令和3年6月3日で36歳になりました。令和3年6月30日に第3句集を刊行予定です。

『菊は雪』という本です。
 





















ずっと、俳句のことを考えてきました。

今までお世話になったみなさんへ感謝の気持ちを込めて、これからお会いするみなさんへのご挨拶としても。
お手にとっていただけると嬉しいです。

流通の都合で、Amazon発売日は7月7日の予定、重陽の一つ前の節句、七夕です。
書店搬入は6/30からとなります。
内容については、また。

2020年10月10日土曜日

2020.10.10 洋楽と英語とミスカト

先日たまたま入った店でビリー・ジョエルが流れていて、中学生のときのことを思い出した。

我々はゆとり世代よりちょっと上なのだが、そのころくらいからだろうか、総合学習の授業というものがあり、好きな科目を選択できた。私は音楽が好きでシンガーソングライターになりたい(!)だとか思っていたので、もちろん選択音楽「作曲をしよう」を受講。どこかにも書いたおぼえがあるが、パソコン室での授業で「Music Pro for Windows」という作曲ソフトをつかい、自分でメロディーラインとコード進行、書きたい人は歌詞も書くというもので、当時はピアノも習っていたし、自分なりにすごくがんばったのだが、納得のいくものはできなかった。早い段階でシンガーソングライターになる夢を諦めることができてよかった。

選択英語は「英語の歌を歌おう」だったので、これも受講した。担当は担任の加藤宏子先生だった。独身だったので「Miss. Kato」「ミスカト」と呼ばれていた(現在ではこのあだ名はちょっとアウトだろう)。




あのときミスカトが全員のカセットテープ(!)に入れてくれたプレイリストは何度も聴いた。全曲の英語と日本語訳(たぶん先生自身が考えたのではないか)の歌詞カードも配布され、ホチキス留めの冊子にした。今思い出せるだけでも、

The Beatles「Yesterday」「Help!」「Michelle」
The Carpenters「 I Need To Be In Love」「Yesterday Once More」 
Billy Joel「Honesty」「The Longest Time」
Elton John「Your Song」
Eagles「Hotel California」 
Stevie Wonder「You Are the Sunshine of My Life」
Eric Clapton「Tears In Heaven」

あたりが入っていた。

もっと聴きたい人はさらにもうひとつカセットを渡すと、それにも曲を入れてくれたように思う。中学生には難しいものもあったけど、とにかく歌うことが好きだったので、歌えそうなものは「イッツァリルビッファニ〜」などと一所懸命カタカナを振ったりして、英語っぽく歌えるように練習した。普通の授業でも、[θ]、[æ]などの発音記号から発音を教えてくれたので、授業をよく聴く生徒だった私は、ミスカトのおかげで、単語ごとの発音なら悪くはない。なお、歌の意味内容にはほとんど興味がなかった。

高校時代だったか、そのときのことを思い出して、TSUTAYAの洋楽コーナーでミスカトプレイリストの歌手名で探し、ビートルズやカーペンターズ、ビリー・ジョエルなどを自分で借りてきて聴いた。カーペンターズ「Superstar」ビリー・ジョエル「The stranger」「Just The Way You Are」なんかは、習った曲だったかあとで知ったか忘れたがいい曲だなぁ。流行った有名な曲のなかでできるだけ中学生にもわかりそうな曲を選んでくれていたから、「先生はビリー・ジョエルではもっと好きな曲がある」などと言っていた気がするが、ミスカトの趣味も多少は出ていたと思う。今回、曲名は全然覚えていなくても歌える部分があるので、上記ツイートのとおり「So excuse me forget(ting)」とか「Long ago」などとググって誰の歌か思い出した。今になってみると、これらの曲を知っていることはある種の教養であり、そういう学びのあり方を提供してくれたミスカト、そして出身中学には非常に感謝している。ちなみに、その1年間だけ非常勤講師をしていた夏井いつき先生の俳句の授業のドキュメンタリー番組をつくるという段で、ミスカトが手を挙げたからうちのクラスで授業が行われ、今の私がある。シンガーソングライターにはなれなかったが、ハイクライターにはなった。

そういうわけで、英語を聴くことのはじめは音楽を聴くのと結びついていて、その限りにおいては苦手ではなかった。実際、中学1年のときは校内の英語の暗唱大会に出て、中学2年では学年で1人高円宮杯の英語弁論大会に出た(これは英語ができるからというより、ミスカトと仲がよかったから)。でも、その弁論大会では、とくに弁論したい内容がなかったから、母親が書いた原稿をミスカトに英訳してもらい、それをミスカトに音読してもらったものを聴いて練習したのだった。英語力は英検3級レベルだったのに、日本語の文章が難しかったため、当然英訳されたものも難しく、なかなかちゃんと覚えて言えるようにならなくて、ミスカトに怒られて泣いた。その後ミスカトは病気で入院してしまい(卒業前に退院した)、代わりにジャミラというあだ名の先生になって、私は英語があまり好きではなくなってしまった。

2020年8月31日月曜日

2020.8.31 「好き」に関する考察 思いナマコと思われマリモ

 人と人との関係において、「好き」の量や質が完全につり合う奇跡というのはほとんど起こりえないので、たいていの場合は相対的にどちらかの方が相手をより「好き」、ということになる。もちろん人の数だけ「好き」のやり方があり、その人のなかでのめいっぱいの「好き」が他の人から見たら豆粒のように見えることもあるから一概に比較はできないが、とはいえ、「好き」同士に見える恋人たちや夫婦であっても、よくよく観察すれば、どちらかの方が相手をより「好き」であることはよくある話だろう。恋愛関係に限らず、上司と部下とか、友人同士でもそうだ。

仮に、ナマコとマリモいう2人で考えてみる。ナマコはマリモのことがめちゃくちゃ好きで、マリモはナマコのことがある程度は好きだという場合だ。

1対1の間柄なら、相手から思われる質・量は、自分が相手を思う質・量と同程度であってほしいとのぞむ場合が多いだろう。ナマコはマリモにもっと好かれたいと願って近づきすぎて、マリモはナマコの愛が重すぎると感じて遠のく。そこで2人の距離感は、マリモ(気持ちが弱い側)の意思によって決定づけられ、そこでバランスをとるのが一般的であるように思われる。「好き」は凶器になることがあるので、当然といえば当然だ。

ただし、まれにナマコ側の気持ちが優先されて、非常に近い距離感でバランスが成り立つことがある。マリモはナマコに(自分が相手を思う以上に)好かれていることを許容しており、一方ナマコはマリモから(自分が相手を思うほどには)好かれていないことを理解しながら、それでもいいと考えているわけだ。ここではナマコの片思い力と、マリモの愛の受容力(または鈍感力、または愛されたい力、または受け流し力、または心身がたまたまヒマであることなど)が釣り合っていて、思い自体がつり合っているわけではないのだが、はたから見ると、ただの仲良しである。

で、自分の場合はというと、友人関係にしろ恋愛関係にしろ完全に片思いナマコ体質なので(思いの質の境目が曖昧なので、ある種の友人や尊敬する人への気持ち=恋というケースが多いがまたこの話は別の機会に)、思われマリモ型の人にここぞとばかり愛を注ぐことで仲良くしてもらっていることが多い(いやもちろん、ふつうに相手を友人として好き、で、それと同程度相手からもそう思ってもらえている場合もある)。自分が相手を思うほどは相手から好かれないことに、なかば安心しているともいえる。かつて一度、自分と愛がつり合いそうな人と付き合ったことがあるが、ガチでお互い身を滅ぼすところだった。自分が敬愛していた相手に、自分が思うより思われてしまったときには、均衡を保つのに苦労した。そのときは、いったん引いて相手の気持ちを逸らしてから、お慕い申し上げ直した。

こういう人間は本来、誰か(手の届かない芸能人など)の「ファン」になるとか「推し」を設定するとかで気持ちを昇華していくのが望ましく、実際現在宝塚歌劇団には大変助けられている。結婚してどうだったかというと、夫はやはりマリモ型なのだが、ナマコよりデカい特大マリモみたいなかんじなので、いくら体当たりしても全部吸収するから安心だ。ただ、私の愛は愛で無限大∞なので、別に結婚したからといって一部の友人のみなさんに対しての片思いをやめることはないから、それについても安心(?)していただきたい。

2019年3月3日日曜日

2019.3.3 ずいぶんと俳句を発表してきたものだ

19歳のときに入会した里俳句会を、この3月末で退会することにした。一昨年、個人誌(同人誌)「翻車魚」をつくったので、それくらいのころからそろそろ里を卒業しよう、みたいな気持ちでなんとなく毎月投句を続けていたが、この4月からちょっと生活スタイルを変更するのにともなって、3/1に退会の旨をメールした。
奇しくもこの日、19歳からずっと聴いていたGRAPEVINEのLIVEがあり、このバンドを好きになったきっかけである「光について」がアンコール1曲目だった。今日が人生の節目だ、という気持ちになった。

「里」への投句は、入ってわりとすぐに1年くらい休んだことがあったけれども14年半くらいいたんだから、1回7句×12ヶ月×13年半=1134句、それに特集などで特別作品を出しているので1200句近くは発表している計算になる。2012年の4号から参加している「鏡」は、1回に見開きで14句とエッセイが掲載される。30号まで出ていて欠詠なしなので、ここでもすでに378句を発表したことになる。
0号と1号で終刊した大学時代の「ワセハイ」、1号2号は紙媒体、3号は「週刊俳句」に掲載させてもらった「クプラス」、これらはすぐ終わってしまったけれども思い入れがある。「里」若手による「しばかぶれ」1号2号にも参加した。現在つくっている雑誌は第2期「guca」(第1期「guca」は電子書籍で3冊と紙で1冊出して2年の活動期限を満了)と「翻車魚」、ともに2017年創刊で2号まで出ている。「guca」は作品発表の場ではないが、ほかはそれぞれ10句程度以上は掲載されている。
発表というのとは少し違うものとしては、2006年から10年ほど角川俳句賞に応募していて(落選していて)、それだけで500句ある(一部は読めます→こちら)。その他、各総合誌や新聞等の依頼で書いたものもあるが、依頼が特段多いわけではないので、そのへんはほかの人と変わらないと思う。1年に1000句くらい書いた年もあったが、ここ2年は450句くらいだ。以前に比べれば捨てる句の割合は減った。

発表数が多ければ素晴らしいというわけではない。同人誌の場合、完全に自分の判断で発表するわけで、発表後恥ずかしくなるパターンも多く、あとから黒歴史が暴かれる可能性がある。高校時代から少しのあいだ入っていた結社「櫟」にも作品が載っているし、その前でいえば雑誌ではないけれども「FAX句会 俳句の缶づめ」には中学時代の句があったりするのは恐怖だ。けれども、一旦発表したものをあとから見て恥ずかしいとわかれば句集には入れない、とフィルター代わりになるのはありがたい(私の既刊句集2冊が厳選気味な所以である)。

「里」に出した句は、〈絵心よこんにちのカレーの名店よ〉〈ドット絵のおすしのうるむ日永かな〉〈松葉松脂すぺしゃるな海を出て〉のような外部からの依頼に出せなかった妙な句が多いが、〈手紙即愛の時代の燕かな〉は、たしか初出が「里」で、それを越智友亮が見つけてきたのではなかったか。

だからどうというわけではないが、少し感慨深くなったので書いた。

2019年2月4日月曜日

2019.2.4 親父のウコン乾燥機

年始、香川の叔父叔母の家に遊びに行った。叔母というのがうちの父の妹だ。
元体育教師の叔父、「最近は飛っびょんよ」というので何かと思ったら退職してパラグライダーを始めたらしい。

叔父に誰かから電話がかかってきて、電話を切った途端、「今週末スキー行くことになったわ」と言う。「スキーは前からやっりょんですか」と聞くと「平成十七年にな、」と話が始まった。

「納屋が燃えたんよ。スキーの板やら一式全部燃えてしもたん」

「え、それって何が原因やったんですか」

「思うに、親父のウコン乾燥機や」

どうやらウコン乾燥機が発熱したかなんかで火が出て納屋が焼けたらしい。その後スキー用具を買い直し、またスキーをやるようになった、という話だったんだが、私は「親父のウコン乾燥機」という単語に釘付けで、スキーのことはどうでもよくなった。

ウコンはじぶんちで育てるものなのか。ウコンはじぶんちで乾燥させるものなのか。そのウコンはどうするのか。売るのか。粉末にして家で飲むのか。ちゃんと聞けばよかった。