2022年4月3日日曜日

2022.4.2 忘れる/忘れない、残らない/残る

私は、素晴らしい経験をすると、これは思い出になるだろう、と思って、写真に撮る。

ふつう、素晴らしい経験をした結果、覚えているのが思い出なのだけれど、私は記憶力がとても弱く、すべて夢だったのではないか、というくらいに、あるいは、そんなことあったっけ、というくらいに、ほとんどすべてを忘れていく。写真を見返すことでしか思い出せないことが多く、写真を撮らない日はすべて、なかったものになってしまうような気がするし、実際そうなっている。だから、全部撮っておかないと全部忘れてしまう、と思う。撮っても、整理しないからどんどん溜まる。オーブンで焼いてはりついてぼろぼろになった鮭とか、別に写真としてはいらないのだけれど、そこにその一日がたしかに存在したことが愛しく思えて、削除できずにいる。そして、また今日も撮る。

(こうやって書いているのもそうだ。何か感じたからそれを表現したくて書く、のではなく、記録のために書く、のでもない。そう感じた自分のことを、自分が忘れないため。同じようなことを何度も書くことも、その期間ずっとそう思っていたことがあとからわかるように、と思えば、何度書いたっていい。焼鳥が食べられなくてつらい、とか。)


アメリカには、写ルンですと、カメラと、フィルムを持ってきている。カメラは、アメリカに来る前に毎週会っていたFredがくれた、ドイツのかんたんなカメラ「AGFA」。写ルンですは4つ持ってきて2つ使った。フィルムは、カラー・モノクロあわせて6本持ってきて今5本目。インスタントカメラもフィルムもこちらで手に入ることがわかったので、好きなときに持ち歩き、好きなときにシャッターを切る。ミラーレス一眼は持ってこなかった。ふだんはスマホのカメラで十分だと思ったので。

こちらにも現像・プリントのサービスはあるけれど、帰国してからすべて、友達が店長をやっている写真屋さんに持っていくつもり。フィルムカメラは久しぶりだったので、1本目はフィルムを取り出すときに失敗して、たぶんほとんど感光してしまっているから、ダメなのはプリントしないでくれ、とか言えるのもいい。何より、そのときの自分にとってどんな光景が大事だと思ったかのこたえを、帰国次第一年分まるごと振り返れることが楽しみだ。

撮った写真を見せたい相手も、いないではない。


私は残らないものも好きだ。音声は言葉になったとたん消えてしまうから、何度言っても、そこには今発されているその音しか存在しないのがいい。内容は覚えていたり、覚えていなかったりする。声を覚えていることもある。覚えている声に、言ってほしいことを言わせたりする。頭の中で。

[忘れる/忘れない]と[残らない/残る]。そこに意志を加えるか否か。
結局どの組み合わせも愛しい、ような気がする。

録音して持っていて、たまに聴く音声。
自分が書いたけれどもうほとんど開かない本。


アメリカに来て半年が経った。折り返し。

[sɯ]・[kʲi]・[da]・[jo]。

2022年2月9日水曜日

2022.2.8 信号のない横断歩道を渡るときだけ

信号のない横断歩道は、Berkeleyにもわりとある。が、90%以上の確率で、車が止まってくれる。東京より、断然だ。

引っ越してきたころは、恐縮です、というようなかんじで、頭を下げ、小走りで渡っていた。

けれども、どうも私と夫以外、誰も頭を下げていない。あるときようやく気づいたのは、頭を下げる、お辞儀をするということ自体、日本の方法だということだった。語学学校の先生が、「日本人のおじぎの角度による謝罪レベル」をおもしろ動画として見せてくれたのもこのころだった。日本人あるあるとして、笑われるということだとすら知らなかった。

小走りも必要なかった。こちらの歩行者用信号は、赤信号に変わる前にあと何秒で赤になるかが、数字でカウントされる。日本と違って、赤になるとすぐに車が来るので、あと5秒なんてときには走って渡っていた。が、こちらの人は誰も急いでいない。残り10秒もあるのに、渡らずに待っている。たまに、堂々とゆっくり渡っている人もいる。信号がない横断歩道では、いつも、誰も急いでいない。横断歩道を小走りで渡るというのもまた、自分の自分らしさが、アメリカにいる日本人っぽさと重なっていたのであった。

聞くところによれば、車の免許の試験の際、歩行者がいたら必ず止まるように習うのだそうだ。というより、歩行者がいるのに止まらないと、罰金が課せられるらしい。私が横断歩道を渡るときに、車がみな止まってくれていたのは、やさしさや気遣いではなく、ルールだったのだ。

ならばその代わりにと、止まってくれた車の運転手に対して、手を挙げたり振ったりするようになった。これが、いいのである。運転手もみな急いでないから、手を振り返してくれたりする。笑顔なのも見える。英語ができなくて心細い朝も、運転手が笑顔で手を挙げ返してくれると、それだけで涙が出そうなほど嬉しかった。

だいたい、このあたりはいろんな人種がいるから、私がどれだけアジア人然としていたところで、はじめからゆっくり話しかけてくれたりはしない。聞き取れなくて聞き返しても、「英語がわかる人がたまたま聞こえなかった」という話し方しかしてくれない。それはもっともな話で、日本でだって、いくら外国人に見えても、ふつうの大人に、子供に話しかけるようにゆっくり話したのでは、失礼にあたるからだ。私は、多少のフレーズは言えるようになったが、親切にたくさん話しかけてくれる相手には、「あ、この人は英語できないんだ」と気づいてもらえるように、早い段階で、わざとつまりながらしゃべる、という方法をとっている。が、かんたんなフレーズが流暢に言えてしまうと会話が成立しないというのは、聞き取りや単語がダメなわりに発音はマシ、という人間にとって、自分のいいところが何もなくなるわけだからわりと屈辱で、はやく聞き取れるようになりたいのだけれど、家で英語をやらないのでそうはならない。結果、はじめての場所ではだいたいの場合、おどおどしたアジア人という様子で、お会計に並んでいる。

でも、信号のない横断歩道を渡るときの私は違う。にこやかに、「ありがとね!」というかんじで、姿勢よく、さっそうと渡る。このときだけは、このあたりの立派な住人になれた気がする。

道ですれ違う犬と赤ん坊にも、笑顔で手を振るようにしている。今のところこちらでは、笑顔で手を振れるということが、自分の最大のコミュニケーション能力なのである。