2023年12月26日火曜日

第四句集『こゑは消えるのに』(港の人)のことと、写真展のおしらせ

集大成などと謳ってもみた『菊は雪』から2年半でもう次の句集を出すというのは、満を持しての刊行が通例の俳句世界において顰蹙を買うのは想定の範囲内だが、それでも刊行するに至ったのは出さないといけない個人的な事情があったためで、ここではそれについて少し書く。

本当は、アメリカでの言葉に関する経験についてのエッセイ集をつくる予定だった。それにあわせてアメリカの句をまとめて句集をつくろうと思っていた。構想の時点ではエッセイ集の付録か、間奏句集でいいと思っていた。が、結果として、エッセイ集はギブアップし、小さいながらも単行本の序数句集だけが完成した。

エッセイ集が出なかった理由はいくつかあるが、一番の原因は、文章が全然おもしろくならなかったことだ。アメリカにいた一年のうち半分くらいの時間は鬱だったのでいろいろ思い出すことが辛く、おもしろかった部分だけを抽出するには誇張するか虚構にするしかなく、自分にはそれができる技量がなかった。

一方、俳句は既に書けていた。 苦しい日々であっても、〆切さえあれば俳句は書ける。書いてきた。パターンで書ける俳句や敗戦日、という句を書いたのは誰だったか、いやはやパターン様々である(もっとも自分は内容に更新があれば書き方に旧来のパターンを用いることに抵抗はない)。海外詠の前例はいくらでもあるが、佐藤文香の海外居住詠には前例がないから、佐藤の句の第一読者である自分は、作品が記録以上の価値を少しでも持ちさえすれば悪くないと思えた。

句集の編集はすぐだった。今回はたった一年間の作品のまとめで、料理でいえば「さっと煮」的な趣を大切にしたかったため、無闇に厳選したり推敲を重ねる必要がなかった。少し気を配ったのは、刊行後日の浅い第三句集『菊は雪』の続きものとして読めるよう仕立てること、同じ版元から出版した第二句集『君に目があり見開かれ』とセットにも見えるような仕掛けを用意すること、くらいだろうか。
  

相変わらずデザインの評判がいいのはデザイナーの吉岡秀典さんにほとんどお任せしているからで、今回の要望は「アメリカ風でなくアメリカにしてください」のみ。 ジャケ買いして読まなくても価値はあると思うが、中身も少しは見てもらえるとありがたい。章タイトルの英語の監修は詩人で翻訳者のWeijia Panさんにお願いした。アメリカで得た素晴らしい友人の一人だ。

そうそう、住んでいたところの雰囲気の参考に、とデザイン打ち合わせに一応持参した写真をずいぶん使ってもらうことになり、これはなかなか嬉しかった。表紙の写真も私が撮ったもの。

嬉しいついでに、小さな写真展をやることにした。

2024年2月2日(金)〜2月12日(月・祝)


















会場のmonogramという写真屋さんでは、幼稚園・小学校の同級生である東尚代が店長をやっている。今回、展示のほとんどを彼女に任せるつもりだ。

長く生きているといろいろなことが起こる。生きて帰ってきたのだから、何をやってもいい。

アメリカから帰ってきて、また日本で1年と少し生きることができた。いろんなところへ行き、好きな人と会えて、2023年は本当にいい1年だった。句集はできてよかった。詩集もできてよかった。おやすみ短歌も。



みなさん、あたたかくして、よい年末年始を。

2023年11月10日金曜日

第一詩集『渡す手』(思潮社) あとがきに代えて

詩集をつくった。

2014年、だからもう9年も前になるが、ウェブ連載のまとめとして『新しい音楽をおしえて』(マイナビブックス)というオンデマンド版の詩集をつくったことがある。今回の『渡す手』はそれ以降の作品をまとめて第一詩集とし、『新しい音楽をおしえて』を初期詩集と呼ぶことにした。

「俳句しかない気がする」と「俳句じゃない気がする」という、ふたつの気持ちのあいだで揺れ動きながら創作を続けてきて、ようやく俳句以外の出力回路を正式なものとして登録するに至った。もともと言いたいことなどないが、やりたいことはまだたくさんある。

現代詩を本格的に書きたいと思うきっかけとなった詩人の岡本啓さん、「現代詩手帖」連載時にお世話になった思潮社の藤井一乃さんに相談し、おふたりそれぞれの詩集編集の方法を学ばせてもらった。詩集を編もうと思わなければ、得られない体験だった。

信頼する書き手である歌人の平岡直子さん、私にとって大切な詩集『針葉樹林』の作者である石松佳さん、そして岡本啓さんに文章を寄せていただいた。コメントをくれた詩の友人たち(広橋山羊さん、中邨政也さん、浦塚未来さん)にも感謝している。

デザインは第三句集『菊は雪』でお世話になった佐野裕哉さん、表紙の英訳は京都文学レジデンシーでご縁を得たCorey Wakelingさんと小磯洋光さんによる。著者である私が日本語詩のこれからを考えていくよう、アシストしていただいたような気分だ。

自分一人では到底辿り着かない一冊が出来上がったことは、願ってもない、いや、願ったとおりの幸運だ。運を摑む腕の長さと、掌のひらき具合には自信がある。
それは私の「渡す手」でもある。

2023.11.10

2023年9月2日土曜日

俳句甲子園、学校との関わり方の話(灘校編)

岩田奎さんの「週刊俳句」(2023.8.27)の記事

俳句甲子園で(再現性をもって)勝つ方法

を読み、2023年、第26回俳句甲子園で灘高等学校に関わった私のケースについて書きたくなったので、顧問の森本先生の許可をいただいて、少し書かせていただくことにしました。

⒈ 前置き

私は愛媛県立松山東高校在学中第4回・5回俳句甲子園に出場し(高校2年で引退)、東京の大学に進学、俳句を続けました。卒業後すぐに第一句集を刊行したはいいものの、就職がうまくいかず、大学卒業後2年目、3年目(2009,2010年)を実家のある松山で暮らし、そこで当時俳句甲子園に初出場となる松山西中等教育学校の指導にあたりました。このときは毎週土曜日に指導に通い、自転車で吟行、ファミレスで粘って句作など、かなりがっつり一緒にやりました。私も若かったですし笑、楽しかったです。

その後東京に帰ってからは「俳句甲子園OBOG派遣事業」という松山市の事業にかかわり、メイン講師として、全国各地で簡単なワークショップと対戦形式の講座をやっていました。今まで参加したことのなかった学校の参加を促す事業でしたが、大会への参加を決めている高校生にとっても、比較的年の近い先輩たちにアドバイスしてもらえる、他校と交流できるなど、いい仕組みだと思います(現在は自分より若いOBOGに講師業務を引き継ぎ、私は退いています。コロナ禍で中断していたものの、また開催されるようです)。

ほぼ同時期(2012年)から毎年「灘校土曜講座」という、社会人が土曜日に来て話をする講座に講師として呼んでいただいていて、これは今も年に1回やらせてもらっています。午前中に講座をやって、午後は有志で句会です。

2013年(10年前!)は灘校の俳句甲子園初出場に際して、少しお手伝いをしました。その当時すでにSkypeを繋いで深夜まで話していたことを思うと、わりと先端的だったかもしれません。それ以後、灘校の文藝同好会には毎年いろいろな生徒が入れ替わり、俳句甲子園は全国大会に進めたり進めなかったりといったかんじ。ずっと顧問は森本先生ですが、先生が先頭に立ってチーム一丸となって……ということはなさそうです。完全に生徒次第。とても健全なことだと思います。

⒉ 大会まで

さて、今年の地方大会のあと、森本先生より「大垣大会で灘A・Bチームとも優勝しました!」とご連絡がありました。聞くと去年の土曜講座に参加してくれていた面々が活躍したとのこと。去年の午後の句会には文藝同好会所属の生徒だけでなく、その日の土曜講座から流れて参加してくれた子もいて、そこで勧誘されて俳句甲子園に出場するに至ったというのだから、嬉しいですね。

森本先生は充分俳句のよしあしのわかる先生なので、指導の質に心配はなかったのですが、私が思ったのは「単純に大人の人手が足りないのではないか」ということでした。やはり1チーム(5人、補欠を入れると6人)に1人程度は大人のまとめ役が必要だと思います。どんなにチームに俳句をよく知っている生徒がいたとしても、予選で使う句を選んだり、順番を決めたりといった交通整理には客観的に見られる大人がいた方がいい。地域の方や他の灘校の先生についてもらってもいいですが、もし必要なら、と前置きした上で、よかったら手伝いましょうかと申し出ました。そうして、先生と方法や条件などを話し合い、全国大会の選句をサポートすることになりました(母校でない学校の指導にあたる場合はどこまで関わるかなど、大人同士の信頼関係も大切です)。

遠隔なので、まずZoomで挨拶だけして、Aチーム・Bチームそれぞれでスプレッドシートを共有、生徒がどんどん句を書き込み、私と森本先生はどちらのチームの作品も見て、○とかコメントをつけていく形式です。コメントといっても「中七下五はよい」「ロマンチックすぎ」「そんなことある?」といったくらいで、森本先生と選が重なることも多く、大掛かりな指導はしていません(少し提案もしましたが、添削はしていません)。

ただ、作品をつくりつづける生徒にとっては「純粋な読者が一人増える」というのは貴重なことなのではないかなと感じました。たとえ森本先生と選が重なっても、一人に選ばれるのと二人に選ばれるのでは、安心感が違うということもあるでしょう。

ここでの「◯」の条件は、「ほとんどの審査員が見て、作品点で7点以上になるだろう」という句です(岩田さんと意見が一致)。最近の俳句甲子園の全国大会で、作品点6点の句が勝つことはほとんどないと思います。7点以上だと、審査員の好みや信じるものの違いもあり、正直何点になるかわからないこともありますが、6と7の間にはわりと大きな差がある気がしていて、それは俳句の俳句らしさ(指導や添削、選句の機能しやすさ)ともつながると思います。

メンバーは期日までに各々書けるだけスプレッドシートに書き込み、オーダーシートをつくる段階に入ります。候補になる句にマーカーで色をつけて絞っていき、一人ずつ・一兼題ずつのベストを選びます。パッと決まるパターンもあれば、そこからまた数打つタイプの子もいるし、粘って推敲するタイプの子も。いったんは○をつけなかった句でも、案外よい句があるのではと見直したりしました。チーム内でバランスも考えつつ、私もコメントはしましたが(この句はいい句だから1句目か2句目にしてはどうか?など)、最後は森本先生とAチーム、森本先生とBチーム、で仕上げて提出しました。5人チームで予選リーグ4題、決勝リーグ4題、それをA・Bチームとなると80句。ふりがなまでミスのないように記入するのは顧問の先生の役割ですから、先生は大変です。

私は2チーム合計で1400句程度に目を通し、基本的にはそこまで。あとは生徒たちが自主的に合宿をし、作戦シートを作って考えて、ディベートの練習をしていたようです。私は合宿中に行われた句会の選句をしたり、質問があれば答えたりしました。同じ学校・同じ年齢くらいの生徒だけだと、人生経験の差が少ないので、句の見方がどうしても一通りにまとまってしまいがちです。自分達の作品がどう読まれるか、その豊かな可能性を提案できる大人がいるのはいいことだと思います(私は今回、ディベートの部分でもう少し関わってもよかったかも、とも思いましたが、いやいや、これくらいでよかった)。

⒊ 大会当日

8月18日。ウェルカムパーティーの前に灘校の生徒たちと少しだけ会う時間がありました。チームごとに1人の補欠と中学生4人、引率にもう一人神徳先生が加わり、計18人の大所帯で驚きました。笑 抽選の結果、予選ブロックがCとHに離れてしまい、しかも試合時間が完全に重なることになったので、森本先生/神徳先生と私、と二手にわかれることにしました。

19日。結果はなかなか思うようにはいかないもので、どちらのチームも予選ブロックで敗退してしまったのですが、実は少しイレギュラーなことが起こって、森本先生と神徳先生のふたりともがBチームを見ることになり、私はそのあいだ実質Aチームについている大人ということになりました。コーチとしては非公認ですが、たぶん保護者もいなかったため、Aチームで何かあったときに対応するなら私になったでしょう。8月の大街道商店街は暑いので、熱中症などにもなりやすく、チームそれぞれに、顧問の先生以外にもう一人大人がいると安心だなと感じました。

予選で敗退したAチームを引き連れて、敗者復活戦の戦略でも考えようとフードコートに行きましたが、気持ちを切り替えてがんばろう!!というタイプの人たちではなく笑、結局ぐだぐだと俳句の話をしていました。「別に景が見える句ばっかりじゃないんだから、はじめに固定しなくていいんだよ」「俳句甲子園風のしゃべり方でしゃべらなくていいんだよ」などなど。あとから合流したBチームはしっかり作戦を練っていたようですが……。ま、でもそういうのも含めて夏の思い出ですよね。灘校はその日のランチも夕飯も各自。先生がご飯屋さんを予約していたり、食事ごとに集まって作戦会議や練習をしている学校と比べると自由すぎて驚くかもしれませんが、それもいいと思います。先生もずっと先生をやらないといけないのは疲れますし。

20日。Bチームの方は敗者復活予選で句が選ばれて、ステージに上がることができました。私は家で急いでYouTubeを見て、慌ててコミュニティセンターへ。惜しくも復活とはなりませんでしたが、よくやったと思います。

弁当を食べたあと、もう試合は見たくないという生徒がいたので、会場外のベンチでいろいろ話していました。ちゃんと席について最後まで見て来年につなげよう!と、思えるならそれが一番いいですが、悔しかったり、疲れちゃったりする人がいるのも普通のことだと思います。私自身、ずっと座って見ているのが苦手で(映画なども苦手です)、2試合目ですでにスタバで実況を追っていたくらいだったので、私にとってもそれでよかったです。「俳句甲子園」で「認められる」とはどういうことか、今後どういう考え方で何をしていくのがいいかなど、話し合いました。自分にとってもいろいろ考えさせられる、いい時間でした。

⒋ おわりに

今回の灘チームのメンバーは「◯◯高校の**さんとLINE交換しました〜!」とか「僕今日もう4回も泣いちゃいました、感動して」とか報告してくる、学校名のイメージをいい意味で裏切る無邪気な生徒たちで、勝つためのコーチというより、一夏の経験のサポートに入れたことを、嬉しく思いました。

私が高校1年生で出場した第4回から22年。高校生のちょっと先輩くらいの気分のままここまで生きてきてしまい、教えに行ったかつての高校生たちがさきに立派な大人になっていますが笑、今後も自分なりの貢献ができればと思った次第です。

また、今回のケースを公開することで、OBOGの学校とのかかわり方、出場校や参加の仕方にバリエーションが出るとすれば、大会がより面白くなるのではないかと考えています。

観客としては、いろんな高校生のいろんな俳句が読めることが、何より楽しみです。

2023年7月4日火曜日

2023.7.4 引っ越しました

胎内にいたとき・実家に戻ってまた上京して・アメリカ行って帰って、などふくめて数えると、人生で16回目の引越。結論をいえばもう一生引っ越したくない。いや、もう一生引っ越さないでいいように、今回戸建に引っ越したので、正しい。たぶん。

自分一人のときは2年に一度住み替えるような生活をしていて、たぶん一緒に住む相手によってはそういう暮しが続く可能性もあったのだろうが、書籍だけで80箱という相手と結婚してしまったために(私は20箱以内だったと思う)(もちろん80箱の梱包はプロにお願いしたわけだが)、家の前の道の狭さから積み込みと荷下ろしを二日に分けてもらっても、あわせて10時間かかり、なんというかもう、疲れ果てた。

くわえて今回はエアコン、洗濯機にくわえ2階リビングに運び込めなかった冷蔵庫を買い替えなければならず苦労したし、電話とインターネットを繋ぐのに計5時間かかった上接続不良で問い合わせが必要だったり、表札をつくったり隣家や町内の班長さんに挨拶したりなどという細かい手間もあり、さらにはごみの分別が非常に細かい上まずは回収してもらうために登録しなければならないなどなど、本当に大変だった。というか、ごみの分別と回収日についてが、現在脳内の半分を占めている。まだまだ未開封段ボールも残っているし、各種住所変更は今からだ。

いつか引っ越すつもりではいたが、引越は急に決まったので当然仕事は通常営業で、随分前から楽しみにしていた札幌行きは今週末。ふつうに勤めている人に比べれば断然ヒマな私でさえ疲れているので、週5で働く配偶者は熱を出し(だからといって何をしてあげるわけでもないが)、とにかくこれはきっと人生の大イベントだったのだろう。

新居は2階が暑く、1階の日当たりが悪い。軒も庭もないわりに雑草は住む前から繁茂していて、お世辞にも快適とは言い難い。しかしそれでもいいところもあって、ひとつには仕事机が誕生したこと。今まで私の部屋はなく、当然仕事用のデスクなどなく、リビングの食卓で常に過ごしていたのだが、配偶者の部屋で埋もれていた机を置く部屋ができたので、個室で仕事をしたい方がその部屋に篭ってよいということになった。そこに小さい冷蔵庫を買い、茶や酒のストックを入れておくことにしたため、酒の横で仕事ができるというのも嬉しいことだ。祖母からもらい受ける着物箪笥もこの部屋に入る予定で、たまに着物を着る生活も楽しみだが、まだ片付いていないのでそれはいつになることやら。


近所の環境はよく、それもラッキーなこと。引っ越してきた当日、駅前の小料理屋に焼酎のボトルを入れた。通いたい。

仲良しのみなさま、もう少しどうにかなったら、ぜひ遊びにいらしてください。雑草を抜いて待っています。

 

2023年4月17日月曜日

2023.4.17 書道の思い出

3月、久しぶりに実家に帰った。定年退職する父が研究室の本をすべて家に持ち帰るため、家につくりつけの本棚を7つも増設することになり、我々の子供部屋からいらないものを処分してくれという母の要望に応じてのことである。実家の自分の部屋を物置にしていた私にとっては一大事で、結局2日くらいではまったく片付かなかったが、昔描いた絵や書道作品を見直して捨てることができ、筆や裁縫用具を東京に持って帰って来れもしたから、帰省をした意味はあった。図工関係は顔から火を吹くような恥ずかしい作品もあったが、中学2年生のときに半切に書いた書道作品の「月致天心」というのは、愛媛県議会議長賞(金賞)だった。すごくうまいわけではないが、大きく立派には書けていた。

私ははじめ母親に硬筆を習っていた。スパルタ指導で、めったに花丸はつかず、ひたすらおけいこ帳に平仮名を書き続けた。その甲斐はあって、鉛筆で平仮名であればわりと上手に書けるようになったが、筆は別だというので、小学3年生から書道教室に通い、小学6年生で松山に引っ越してからも続けた。高校の芸術は音楽を選択したが、結局高校3年生まで書道教室に通い、月に3〜4回、筆に墨をつけて書いた。
系列の書道塾が毎月出品する雑誌があり、基本的に毎度1級以上は上がるが、年が変わるとまたリセットされた。私は好きなタイプのお手本のときは熱心にやり、そうでないときは研究部など別の作品を適当に書いたり、自由題のときは自分の俳句を書いたりしていたから、たいして上達しなかった。なぜちゃんと行書や草書、隷書が書けるように練習しなかったのだろうと今になって思うが、逆に言えば「字を書くこと」が趣味だったのかもしれない。趣味とは、特段上達しなくてもやり続けられることだろう。私は体を動かすことが好きなので、その意味でも書道はよかった。
先生は放任主義のおばあさんで、ジュリちゃんというヨークシャテリアを飼っていた。ジュリちゃんは奥の部屋にいるか、先生のところで座っていた。たまに生徒のまわりをうろうろするので、先生は「ジュリちゃん!」と叱るのだが、先生は先生の机から動かなかった。ジュリちゃんの好きな小さいぬいぐるみのことを、先生は「きないワンワン」と呼んだ。「きない」は「黄色い」の方言で、そうか「きなこ」は「黄な粉」か、と感動した覚えがある。たまに愛媛大学の院生の男の人が教えに来てくれて、先生とは指導方針が違うなと思ったが、温厚な人で、あまり気にはならなかった。大東文化大学卒とのこと、それが書道で有名な大学というのもそこで知った。
小学生向けの教室だったので、高校生は私の他に一人いたかいなかったかくらいで、ふだんは大きい作品を書くこともできなかったし、とくに書きたいとも思わなかった。高校1年生のとき、退職する世界史の先生に頼まれて坂村真民の詩を書いたが、それくらいだ。高校部のお手本で顔真卿や王羲之の名前は聞いたが、抜かれた文字を見て練習するだけだったから、どれが誰の字かは覚えず仕舞いだった。

先生が教えてくれたことで、ひとつ印象に残っているのは、「白」の話だ。「白が足りん」「白が多すぎる」など、画面における空白をどこにどれだけ取るか、それをたびたび言われた。書いている文字を見るのではなく半紙全体を見なければならず、要は俯瞰が大事ということで、わりと子供扱いでない指導だったと思う。

神戸に住んでいた小学生のころ、私は毎年父の大学の学祭を見に行くのが楽しみだった。父は当時、私立の女子短期大学の書道部の顧問だったので、学祭では書道展示会場に行き、「佐藤先生の娘さん」ということでかわいいお姉さんに囲まれて、お菓子などをもらい、ちやほやされるのが嬉しかったのだ。ある年など、学祭にはやく行きたいがあまり、下り坂を走って転び、唇を切って血をだらだら流して下校した。実はその傷跡は今も残っている。
そういうわけで、書道は見ても読めなかったが、ちやほやされていたので悪い印象はない。書道の展示は内容を読むことが第一目的ではなく、字のバランスや筆づかいを美しいとか面白いとか思うもののようなので、文章を読むのが苦手な私でも楽しめる。大人になってから書道の展示を見ると、書道教室の先生の「白」の話もよくわかった。

自分が俳句や言語による作品をつくることは、表記されたときその画面に実現する文字の世界への愛着によるところが大きいかもしれない。字が紙に配置されているのを見るためには、まず字がないと始まらないからだ。最近は自分や他人の本をつくることに関わっていたため、主に活字の文字組の美しさについて考えることが多かったが、元来の書き文字好き特性も今後発動させていきたいと思う。具体的にはまず書道を習い直したくて、方法を検討中です。

2023年2月1日水曜日

2023.2.1 西武線散歩 牧野記念庭園など

このブログも月に1回くらいは更新したい、ある程度価値のあることを書いてみたい、などと思うものの、なかなかそうもいかない。精神力不足だ。一方体力の方はあり余っている。あきらかに無職だからなのだが、体力だけをつかう仕事というのも少ないわけで、なかなかうまくいかないものである。美術館に行ったり皇居ランをしたり、とにかく体を疲れさせるようにしている。

今日はまず高円寺に出て、北口からほとんど使ったことのない北向きのバスに乗った。練馬行きだ。練馬駅に着いたらちょうどお昼の時間だったので、ランチの店を探す。居酒屋ゾーンに入ってしまったため「昼飲み」の文字が目に入ってきたが、今日は昼は飲まないと決めていたのでガストにした。ネギトロ丼(ネギ抜き)と牡蠣フライのセットという定食を頼んだら、猫型のロボットが運んできた。初めてだったので嬉しかったが、肝心のご飯はたいしてうまくなかった。ハンバーグにするべきだったかもしれない。



適当にGoogle mapを見ていたら、大泉学園駅の近くに牧野記念庭園というのがあったので、練馬駅から西武池袋線に乗って行くことにした。牧野富太郎が亡くなるまでの30数年をすごした住宅跡地らしい。1月ということもあり、庭園内の色味のある植物は万両や水仙、山茶花くらいだったが、奥に小さい記念館があり、牧野の色紙など文字を見ることができたのはよかった。細密な植物画とは対照的に豪快な筆遣い。なお、牧野植物園は高知にある。

 断崖のへんなところにきてしまひへんなきもちをおさへにかかる  渡辺松男『牧野植物園』(書肆侃侃房)

 

そこから吉祥寺行きのバスに乗り、吉祥寺まで行ってもよかったが吉祥寺はよく知っているので、途中の武蔵関駅前で下車した。駅前を少し見て、東に一駅歩いて上石神井駅へ。ブックオフに寄ったらアダルトコーナーが充実していた。すでに持っている好きな歌集が安くなっていたので購入した。誰か若い人にでもあげよう。


上石神井駅から西武新宿線の急行に乗る。高田馬場まで行く手もあったが、馬場は来週行く予定なので鷺ノ宮駅で下車した。少し疲れたのでドトールでコーヒーとスイートポテト。以前もどこかに書いた気がするが、ドトールはスタバ等より無職にやさしい気がしてよく利用している。鷺ノ宮からは妙正寺川に沿って高円寺に帰った。16時台だったため、居酒屋に入らず無事に帰路についた。スマホの「フィットネス」というアプリによれば、歩数は10695歩、歩いた距離は7.5km。消費カロリーは256kcalで、目標としている260kcalにあと一歩届かなかった。俳句を数句と、詩を少し書いた。