2020年10月10日土曜日

2020.10.10 洋楽と英語とミスカト

先日たまたま入った店でビリー・ジョエルが流れていて、中学生のときのことを思い出した。

我々はゆとり世代よりちょっと上なのだが、そのころくらいからだろうか、総合学習の授業というものがあり、好きな科目を選択できた。私は音楽が好きでシンガーソングライターになりたい(!)だとか思っていたので、もちろん選択音楽「作曲をしよう」を受講。どこかにも書いたおぼえがあるが、パソコン室での授業で「Music Pro for Windows」という作曲ソフトをつかい、自分でメロディーラインとコード進行、書きたい人は歌詞も書くというもので、当時はピアノも習っていたし、自分なりにすごくがんばったのだが、納得のいくものはできなかった。早い段階でシンガーソングライターになる夢を諦めることができてよかった。

選択英語は「英語の歌を歌おう」だったので、これも受講した。担当は担任の加藤宏子先生だった。独身だったので「Miss. Kato」「ミスカト」と呼ばれていた(現在ではこのあだ名はちょっとアウトだろう)。




あのときミスカトが全員のカセットテープ(!)に入れてくれたプレイリストは何度も聴いた。全曲の英語と日本語訳(たぶん先生自身が考えたのではないか)の歌詞カードも配布され、ホチキス留めの冊子にした。今思い出せるだけでも、

The Beatles「Yesterday」「Help!」「Michelle」
The Carpenters「 I Need To Be In Love」「Yesterday Once More」 
Billy Joel「Honesty」「The Longest Time」
Elton John「Your Song」
Eagles「Hotel California」 
Stevie Wonder「You Are the Sunshine of My Life」
Eric Clapton「Tears In Heaven」

あたりが入っていた。

もっと聴きたい人はさらにもうひとつカセットを渡すと、それにも曲を入れてくれたように思う。中学生には難しいものもあったけど、とにかく歌うことが好きだったので、歌えそうなものは「イッツァリルビッファニ〜」などと一所懸命カタカナを振ったりして、英語っぽく歌えるように練習した。普通の授業でも、[θ]、[æ]などの発音記号から発音を教えてくれたので、授業をよく聴く生徒だった私は、ミスカトのおかげで、単語ごとの発音なら悪くはない。なお、歌の意味内容にはほとんど興味がなかった。

高校時代だったか、そのときのことを思い出して、TSUTAYAの洋楽コーナーでミスカトプレイリストの歌手名で探し、ビートルズやカーペンターズ、ビリー・ジョエルなどを自分で借りてきて聴いた。カーペンターズ「Superstar」ビリー・ジョエル「The stranger」「Just The Way You Are」なんかは、習った曲だったかあとで知ったか忘れたがいい曲だなぁ。流行った有名な曲のなかでできるだけ中学生にもわかりそうな曲を選んでくれていたから、「先生はビリー・ジョエルではもっと好きな曲がある」などと言っていた気がするが、ミスカトの趣味も多少は出ていたと思う。今回、曲名は全然覚えていなくても歌える部分があるので、上記ツイートのとおり「So excuse me forget(ting)」とか「Long ago」などとググって誰の歌か思い出した。今になってみると、これらの曲を知っていることはある種の教養であり、そういう学びのあり方を提供してくれたミスカト、そして出身中学には非常に感謝している。ちなみに、その1年間だけ非常勤講師をしていた夏井いつき先生の俳句の授業のドキュメンタリー番組をつくるという段で、ミスカトが手を挙げたからうちのクラスで授業が行われ、今の私がある。シンガーソングライターにはなれなかったが、ハイクライターにはなった。

そういうわけで、英語を聴くことのはじめは音楽を聴くのと結びついていて、その限りにおいては苦手ではなかった。実際、中学1年のときは校内の英語の暗唱大会に出て、中学2年では学年で1人高円宮杯の英語弁論大会に出た(これは英語ができるからというより、ミスカトと仲がよかったから)。でも、その弁論大会では、とくに弁論したい内容がなかったから、母親が書いた原稿をミスカトに英訳してもらい、それをミスカトに音読してもらったものを聴いて練習したのだった。英語力は英検3級レベルだったのに、日本語の文章が難しかったため、当然英訳されたものも難しく、なかなかちゃんと覚えて言えるようにならなくて、ミスカトに怒られて泣いた。その後ミスカトは病気で入院してしまい(卒業前に退院した)、代わりにジャミラというあだ名の先生になって、私は英語があまり好きではなくなってしまった。

2020年8月31日月曜日

2020.8.31 「好き」に関する考察 思いナマコと思われマリモ

 人と人との関係において、「好き」の量や質が完全につり合う奇跡というのはほとんど起こりえないので、たいていの場合は相対的にどちらかの方が相手をより「好き」、ということになる。もちろん人の数だけ「好き」のやり方があり、その人のなかでのめいっぱいの「好き」が他の人から見たら豆粒のように見えることもあるから一概に比較はできないが、とはいえ、「好き」同士に見える恋人たちや夫婦であっても、よくよく観察すれば、どちらかの方が相手をより「好き」であることはよくある話だろう。恋愛関係に限らず、上司と部下とか、友人同士でもそうだ。

仮に、ナマコとマリモいう2人で考えてみる。ナマコはマリモのことがめちゃくちゃ好きで、マリモはナマコのことがある程度は好きだという場合だ。

1対1の間柄なら、相手から思われる質・量は、自分が相手を思う質・量と同程度であってほしいとのぞむ場合が多いだろう。ナマコはマリモにもっと好かれたいと願って近づきすぎて、マリモはナマコの愛が重すぎると感じて遠のく。そこで2人の距離感は、マリモ(気持ちが弱い側)の意思によって決定づけられ、そこでバランスをとるのが一般的であるように思われる。「好き」は凶器になることがあるので、当然といえば当然だ。

ただし、まれにナマコ側の気持ちが優先されて、非常に近い距離感でバランスが成り立つことがある。マリモはナマコに(自分が相手を思う以上に)好かれていることを許容しており、一方ナマコはマリモから(自分が相手を思うほどには)好かれていないことを理解しながら、それでもいいと考えているわけだ。ここではナマコの片思い力と、マリモの愛の受容力(または鈍感力、または愛されたい力、または受け流し力、または心身がたまたまヒマであることなど)が釣り合っていて、思い自体がつり合っているわけではないのだが、はたから見ると、ただの仲良しである。

で、自分の場合はというと、友人関係にしろ恋愛関係にしろ完全に片思いナマコ体質なので(思いの質の境目が曖昧なので、ある種の友人や尊敬する人への気持ち=恋というケースが多いがまたこの話は別の機会に)、思われマリモ型の人にここぞとばかり愛を注ぐことで仲良くしてもらっていることが多い(いやもちろん、ふつうに相手を友人として好き、で、それと同程度相手からもそう思ってもらえている場合もある)。自分が相手を思うほどは相手から好かれないことに、なかば安心しているともいえる。かつて一度、自分と愛がつり合いそうな人と付き合ったことがあるが、ガチでお互い身を滅ぼすところだった。自分が敬愛していた相手に、自分が思うより思われてしまったときには、均衡を保つのに苦労した。そのときは、いったん引いて相手の気持ちを逸らしてから、お慕い申し上げ直した。

こういう人間は本来、誰か(手の届かない芸能人など)の「ファン」になるとか「推し」を設定するとかで気持ちを昇華していくのが望ましく、実際現在宝塚歌劇団には大変助けられている。結婚してどうだったかというと、夫はやはりマリモ型なのだが、ナマコよりデカい特大マリモみたいなかんじなので、いくら体当たりしても全部吸収するから安心だ。ただ、私の愛は愛で無限大∞なので、別に結婚したからといって一部の友人のみなさんに対しての片思いをやめることはないから、それについても安心(?)していただきたい。