2019年3月24日日曜日

2019.3.24 やってきた句会のこと

2009年3月、松山の実家に住むことにした。俳句のみんなは東京で句会やらイベントやらできるのに、自分だけが取り残されるだろうことが怖かった。松山での私を勇気付けてくれたのは、松山西中等教育学校での活動と、オンライン上の枡野浩一短歌塾だった。高校生たちに2年間、週1のペースで俳句を教え、短歌塾で出会った太田ユリに、その前から知っていた石原ユキオを紹介して、3人で「期間限定短詩系女子ユニットguca」というのをつくった。その当時黎明期にあった電子書籍をつくることにした。仕事はうまくいかなかった。

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2011年、震災後に再上京。gucaの企画で「句荘guca」という句会をやり、そのあとその名前をとって、秋から「句荘佐藤」という句会をやりはじめた。

2012年のはじめ、短歌塾で一緒だった野比さんに空き地というスペースを借りて俳句のワークショップ「ハイクラブ」を開催。その後、ハイクラブは土日に行う吟行句会、句荘は阿佐ヶ谷ユープケッチャで行う飲み句会となる。

2013年4月から、ハイクラブは東大サブ句会と合体し、ラブ句会となる。この前年に、松山で教えていた今泉礼奈が上京して大学2年生となったので、一緒にやろうという話になったため。句荘は会員制として佐藤自宅で開催するようになる。6月から、野比さんの提案で空き地句会を開始。空き地句会は初級編と中級編に分けて開催する。
句荘、年末に終了。句荘のおわかれ会の参加者は、辻一郎、後藤グミ、福田若之、篠原謙斗、白井舞、伊藤奈緒子、泉かなえ、外山一機、上田信治、佐藤文香(トオイダイスケ欠席投句)。このあと、辻さんとグミちゃん、北海道へ転居。ラブ句会も終わる。

2014年4月、森鷗外記念館の吟行イベントに来た佐藤智子を句会にスカウト。8月、空き地句会中級編を小部屋句会と名称変更、新宿に場所変更して開始。9月、空き地句会presents秋の高山俳句旅行。参加者は平岩壮悟・田中惣一郎・高瀬みつる・今泉礼奈・青木ともじ・佐藤智子と、当時まだ東京には住んでいなかった黒岩徳将、そして私。11月、中村裕・遠山陽子と、20句持ち寄る悟空句会を開始。空き地句会は12月で終了。

2015年1月、『君に目があり見開かれ』お披露目会。3月、泉かなえちゃん壮行句会。8月、朝倉彫塑館吟行。9月に森鷗外記念館の句会イベントに来た松本修が中心となって、11月から初心者向けの指導句会として鰺句会を開始。

2016年7月〜NHKカルチャー青山教室で講師をつとめる。

2017年1月から小部屋句会の会場を西日暮里に変更。4月、中村裕さんが亡くなり、悟空の会休止。8月、天の川俳句大会開催。11月、小部屋句会ふたたび新宿に。

2018年1月、走鳥堂句会@枡野書店を開始。3月、休止していた悟空の会を、鴇田智哉・福田若之・遠山陽子と再開。9月、指導句会をやめようと思い、NHKカルチャー、鰺句会を終了。10~12月、枡野書店を毎週借りて、マヌルネコ句会(3回のみの幻の句会となる)・自習室・真鯵句会も行う。小部屋句会、フルーツポンチ村上さんの取材を受ける。実験句会「虎とバター」開始。

2019年3月、走鳥堂句会終了。

現在は小部屋句会(第一木曜)・真鯵句会(第二水曜)・虎とバター(火曜)・悟空の会。週1回ペースでいきたいと思っています。今年は吟行もやるつもりです。

10年前から、いろいろ形を変えながら続いているなぁ。

2019年3月3日日曜日

2019.3.3 ずいぶんと俳句を発表してきたものだ

19歳のときに入会した里俳句会を、この3月末で退会することにした。一昨年、個人誌(同人誌)「翻車魚」をつくったので、それくらいのころからそろそろ里を卒業しよう、みたいな気持ちでなんとなく毎月投句を続けていたが、この4月からちょっと生活スタイルを変更するのにともなって、3/1に退会の旨をメールした。
奇しくもこの日、19歳からずっと聴いていたGRAPEVINEのLIVEがあり、このバンドを好きになったきっかけである「光について」がアンコール1曲目だった。今日が人生の節目だ、という気持ちになった。

「里」への投句は、入ってわりとすぐに1年くらい休んだことがあったけれども14年半くらいいたんだから、1回7句×12ヶ月×13年半=1134句、それに特集などで特別作品を出しているので1200句近くは発表している計算になる。2012年の4号から参加している「鏡」は、1回に見開きで14句とエッセイが掲載される。30号まで出ていて欠詠なしなので、ここでもすでに378句を発表したことになる。
0号と1号で終刊した大学時代の「ワセハイ」、1号2号は紙媒体、3号は「週刊俳句」に掲載させてもらった「クプラス」、これらはすぐ終わってしまったけれども思い入れがある。「里」若手による「しばかぶれ」1号2号にも参加した。現在つくっている雑誌は第2期「guca」(第1期「guca」は電子書籍で3冊と紙で1冊出して2年の活動期限を満了)と「翻車魚」、ともに2017年創刊で2号まで出ている。「guca」は作品発表の場ではないが、ほかはそれぞれ10句程度以上は掲載されている。
発表というのとは少し違うものとしては、2006年から10年ほど角川俳句賞に応募していて(落選していて)、それだけで500句ある(一部は読めます→こちら)。その他、各総合誌や新聞等の依頼で書いたものもあるが、依頼が特段多いわけではないので、そのへんはほかの人と変わらないと思う。1年に1000句くらい書いた年もあったが、ここ2年は450句くらいだ。以前に比べれば捨てる句の割合は減った。

発表数が多ければ素晴らしいというわけではない。同人誌の場合、完全に自分の判断で発表するわけで、発表後恥ずかしくなるパターンも多く、あとから黒歴史が暴かれる可能性がある。高校時代から少しのあいだ入っていた結社「櫟」にも作品が載っているし、その前でいえば雑誌ではないけれども「FAX句会 俳句の缶づめ」には中学時代の句があったりするのは恐怖だ。けれども、一旦発表したものをあとから見て恥ずかしいとわかれば句集には入れない、とフィルター代わりになるのはありがたい(私の既刊句集2冊が厳選気味な所以である)。

「里」に出した句は、〈絵心よこんにちのカレーの名店よ〉〈ドット絵のおすしのうるむ日永かな〉〈松葉松脂すぺしゃるな海を出て〉のような外部からの依頼に出せなかった妙な句が多いが、〈手紙即愛の時代の燕かな〉は、たしか初出が「里」で、それを越智友亮が見つけてきたのではなかったか。

だからどうというわけではないが、少し感慨深くなったので書いた。